「僕を……クビにすると仰るんですか? この僕を、アレッサンドロ・ジラルディーノを!?」

 そこまでの処分を下されるはずがないと考えていたのだろう、アレックスは呆然とした様子で問い返す。だがダリウスはあくまでも冷徹に去り行く者を見送るための言葉を告げた。

「君の実力は確かだっただけに非常に残念だ。あと少し真面目に辛抱していられたなら、メロディの後釜などそちらの方から飛び込んできただろうし、私もそのつもりで君を招いていたというのに」

 アレックスの表情が凍りついたように強張り、その顔からはもはや何も読み取れない。だが団長の意図がわかっていたところで、彼が大人しく来たるべき時を待てたかどうかは疑問が残る。これまで1週間と経たず頂点を極め持て囃されてきた挫折を知らない若者に、誰かの下で甘んじるという選択肢などきっと初めからなかったに違いないのだから。

「……どうあってもそのお考えを変えるつもりはないと?」
「ああ」
「そうですか。よくわかりました」

 不気味なほど落ち着いた声でそう返事をすると、アレックスはまるで道端に落ちている枯葉か何かのように散らばるカードを踏みつけながら扉の前まで歩いていく。そして戸を開く直前に振り向いた彼は薄暗い笑みを浮かべると、挑発的な声音を隠さず2人に言った。

「今夜は最終日だ、客はもちろんこれまでと同じかそれ以上のものを求めて来るでしょう。僕がいないと知れた時の彼らの顔が見ものですね」

 恨みに燃える干し棗色の眸はなおその色を深く増し、乱れた亜麻色の髪は日頃の完璧な姿からはほど遠い。

「ですが遠慮なく出て行かせてもらいますよ。あなた方を気にする義理なんてもう僕にはありませんからね!」

 アレックスはそれだけ言うと叩きつけるように扉を閉めて団長室から姿を消し、そこにはダリウスとメロディだけが残った。2人はしばしの間身じろぎ1つせず立ち尽くしていたが、どちらからともなく顔を見合わせると弾かれたようにお互いの背へと腕を回す。

「ああ、ダリウス……!」

 額にそっと押し当てられる唇の何と温かいことか。安堵のあまりに零れた声は消え入りそうな囁きにも似て、この部屋に入った時からほんの30分にも満たない間に起きた様々な出来事が否応なしに頭の中を駆け巡る。しかしこの1ヶ月ほど続いた気の休まらない日々が終わりを告げたからと言って、何もかもがこれまで通りに戻るというわけでもなかった。
 アレックスの存在は良くも悪くも強く印象付けられているため、団員にも観客にも彼がもはやエフェメール一座の団員ではないことを納得してもらわねばならない。去り際の言葉通り、今夜の公演で浮いてしまった時間を埋める必要もあるだろう。新進気鋭の若手を引き抜いた時に支払った移籍金も元を取れたとはとても言い難く、今後の運営面を考えればメロディに並ぶスターを失ったということも手痛い。
 それでも仲間を害してなおそれを省みることもないアレックスの本性を思えばこうする以外に道はなく、例えそれが今でなかったとしても遅かれ早かれ同じ結末を迎えていたはずだ。

「メロディ、私はね」

 だが微かな哀しみを宿したその声に彼女がはっと顔を上げると、ダリウスは寂しげな顔つきで静かに話し始める。

「誰かに君を上回るスターを演じてほしかった。もちろんそれは君にその地位を任せられないということではないし、一座の発展のためにはいつまでも君1人に頼っているわけにはいかないというきちんとした理由からの願いだが、私は……批難を覚悟で言えば、もっと君と一緒に過ごせる時間を作りたかったんだ」

 その言葉にメロディは目を見開き、彼は咄嗟に視線を伏せた。

「事務仕事が主な私はともかく、君が一座の花形としてその役を担い続ける限りはそれもままならない。観客の期待に応え続けるための重圧は肉体的にも精神的にも大変な負担だが、君が舞台に上がるか否かは今も公演の評価を大きく左右してしまう。かと言って君と人気を分け合えるほどの演者はすぐに育つものでもなく、私は悩んでいた」

 一座の団員は誰もが皆平均かそれを上回る程度の力を備えていて、幾人かは他所の大きなサーカスへ移っても十分に通用する実力を持っている。しかし天幕中の目を惹きつける圧倒的な存在感というものはやはり天賦の才に依存してしまうところが大きく、それに加えて多彩な技を持ち、そのどれもを安定して披露できる人材は非常に稀だ。

「そんな時だよ、アレックスのマジックショーを見る機会に恵まれたのは。そしてその演技を見た私は思ってしまった……彼が来てくれればこの願いはすぐにでも叶うかもしれないと。本当にすまない、私が安易な選択をしなければ君がこんな危険な目に遭うこともなかったはずなのに」
「そんな! ダリウス、あの人のしたこととあなたとは関係な――」
「いや、責任を感じずにはいられない。彼の標的が君でなかったとしても私は同じ結論を出していたが、君の身にとりかえしのつかないことが起こっていたかもしれないと思うと私は自分を許せないんだ」

 ダリウスの声は震えていて、それだけで彼がどれほど自分を責めているのかは痛いほどにわかる。メロディは愛する相手の苦しみを取り除こうとするかのようにぎゅっとその背を抱きしめると、恋人の勇敢な行動を思い起こしながら優しく告げた。

「でもあなたは私を助けてくれました。あの人ももういません。いいんです……それだけで」
「しかし――」
「ダリウス、今考えなければいけないことは他にあるでしょう?」

 彼女がそう問いかければダリウスは悩ましい顔のまま、直面している問題の深刻さを示すように重々しく頷く。

「……そうだな。このことをどう説明するかも考えなければならないが、何よりまずは今夜の穴をどう埋めるかだ」

 今から他の演者に手持ちの時間を増やして演目を組み直してもらうにしても、全員に通達した上で調整し直しているほどの余裕はない。とは言えそれなりに長い持ち時間を任されていたアレックスの位置を丸々削れば、観客からは不満も出るだろう。そこでメロディは部屋の端、無造作に積まれたいくつかの箱の1つを真っ直ぐに指差した。

「!」

 それが何かに気づくと彼は驚いた表情を見せ、次いで困惑気味に問い返す。

「メロディ、君は……私に代役を務めろと?」

 いつも多くの書類がその上に積まれていても、団長室の隅に必ず置いてあるその箱。訓練生だった頃に何気なく尋ねた中身のことを、彼女は今も覚えている。どれだけの時が経とうとダリウスが手離すことなく持ち運び続けている、彼の根幹を成しているもの。いかなる時にも美しく手入れをされたままの、手品師の正装が一揃い入っているということを。

「いや……だが、それは」
「ダリウス、あなたは今責任を感じていると言いましたよね。ならこうするのが1番だとは思いませんか?」

 だがメロディがそんなことを提案したのは、何も恋人の雄姿をもう1度舞台の上で見たいからというだけではない。本当に観客のことを考えられる人物でなければ代役には相応しくない、その確信があるからこそ1人の演者として彼女はそう打診しているのだ。

「……君には敵わないな」

 ダリウスは差し出された箱を長い沈黙の後で根負け気味に受け取り、何かを決意するように1度大きく深呼吸する。そして再び灰色の双眸を上げると、メロディに頷いてこう言った。

「よし、ならまずは団員たちを集めてくれ。私から経緯を説明した後、必要な演出の変更を話し合おう」