しばらく前までお互いの存在すら知らなかった2人は、どちらも言葉を発することなく爆ぜる炎を見つめていた。だが夜の闇よりもなお濃い色のコーヒーを好む男は、斜向かいに腰かける娘に向かって静かに口を開く。どこか胸が高鳴るような、不思議な響きを宿した声で。

「あんた、大した根性だな。正直なところ3日も経たずに根を上げるかと思ってたぜ。それに馬の腕も確かだ、さすがは女牧場主だよ」
「ありがとうございます。ミスター・ブラッドリーこそ牛の扱いにも慣れていらっしゃるんですね。お若い頃はどこかの牧場で働いたことがおありとか……」
「ああ、今のお姫さんよりまだガキだった頃のことだがな」

 荒野で会話ができる相手は自分たち5人のみであれば、こうして彼と言葉を交わす機会もまた楽しみの1つだ。レオンは想像していたよりも打ち解けやすい人物であり、問われれば出逢う前の過去について聞かせてくれることもある。クライヴに敢えて厳しい言葉をぶつけたのも悪意ではなく、現実を踏まえた上で勇み足を忠告していたのだと、今となれば彼の振る舞いから気づくのはそう難しくない。無宿人たちによくあるような粗暴な部分も感じさせず、ゴードンたちにも劣らぬ秀でた牛追いの腕を見る限り、その気になればどんな牧場でも高級取りになれるだろう。少なくとも食い扶持には決して困らない身分に思える。
 それでもレオンがその身1つで旅を続けているというのは、引く手に事欠かぬ立場であれば一見不思議ではあったが、数日とはいえ南へ向かう時間を一緒に過ごした今、シャンティは用心棒の心を徐々に理解し始めていた。彼は本当に果てしなく広がる荒野を愛しているのだ――自由を求めて流離い、愛馬とどこまでも駆けていくことを何よりの喜びとしているのだ。これまで彼女が何十人も見送った旅人の中には、レオンと同じ流浪の魂を持つ者も少なくなかった。彼らは自身の心が冒険と新たな旅に飢えたなら、例え土砂降りの雨の中でも迷わずに出発するだろう。
 シャンティの小さな世界は牧場と最寄りの町の2つで、幼い彼女はその向こうに広がる大地に思いを馳せた。生家の前を横切って遥か遠くの土地へ向かう人々。単身で、あるいは小さな赤子を抱いた家族連れで。ある者は馬と共に、またある者は幌馬車に様々な道具と食料とを満載して。時には今の自分たちのように遠くまで牛を追いながら、土埃を立てつつ移動する群れを遠くに見た時もある。彼らがどこまで行くのか、知りたくないはずがあっただろうか?
 干からびた川の跡、垂直に切り立った岩壁の崖。見たこともない植物や異なる言葉を話す商人たち。どんなに強く望んでもシャンティには決して知り得なかった、与えられも許されもしなかったそんな世界を見てきた者。ずっと心に思い描いた夢を知り尽くした相手が今、自分のすぐ傍で薫り高い飲み物をカップに注いでいる。それに胸を弾ませずに澄ましていることはとても難しい。

「あの馬とは一体どこで?」

 彼が差し出した淹れたてのコーヒーのマグカップを受け取ると、娘は馬たちが集められた草地の方をちらりと見やる。

「マースローのことか? 縄をかけて捕まえたのさ、その辺で草を齧ってるところをな」
「……嘘ですよね?」

 思わず信じかけたシャンティは目を丸くしてそう呟いた。しかしレオンの黒い眸は彼女をからかうように瞬き、あたかもそれが真実だと言わんばかりの期待を抱かせる。そして彼女の頭には武勇で名高い先住民めいて、縄1本で黒馬を捕らえる姿が浮かんでしまうのだ。
 共に過ごした時間はまだほんの短い間だというのに、彼の口から語られる話はどれも皆心躍らせる。幼い頃父や母が眠る前に読んでくれた物語、あくる日の夜の続きを待ち焦がれて何度もねだったように、レオンの言葉の先にあるものを切望せずにはいられない。さすがにこの歳になれば根掘り葉掘り尋ねることはしないが、黙ったままで過ごすにはそれが1晩であっても長すぎる。次々に思い浮かぶ質問はまるで終わりなどないほどで、娘自身にもその好奇心を止める手立てはないのだから。
 シャンティは困難の中にも喜びを探し出す術に長け、暗闇に星を見つけるように希望を育てることができる。その終わりがほろ苦い区切りをつけるための旅路であっても、下を向いたまま悲嘆に暮れる日々を過ごそうとは思わない。そんな彼女にとって憧れの荒野を駆け抜ける経験は、生まれた家を離れる悲しみからも気を紛らわせてくれる。耐えて待つべき時は終わり、自ら討って出る日が来たのだ。困難は尽きずとも、それはあのまま残っても変わらない。同じ苦しみを味わうならば少しでも前へと進みたい、そう考えることができるのはシャンティの美徳の1つだろう。
 汗をかいても十分な水を浴びることさえできない旅は、普通の娘であればとても耐えられない苦行に違いない。それでも諦めるという言葉が心をよぎりはしないのは、彼女もまた荒野を愛する者の1人だったからだろうか。

「そう言うお姫さんも目を見張るような馬に乗ってるじゃないか。気をつけな、マースローはこう見えて好みがうるさいんだが、ここ数日あんたの牝馬めすうまに惹かれてる素振りがあるんでね」
「!」

 ミルキーウェイは産まれた時からシャンティが世話をしてきたが、まだ仔を産むには若くこれまでに番いを作ったことはない。牧場仕事をしてきたからには繁殖の知識こそあれど、突然言われたそんな言葉に計らずも頬が赤く染まる。特に、自身も愛馬と同じく男を知らない身であれば。

「硬派な奴だと思ったら何のことはない、所詮おとこさ。ちょっと一緒に走っただけで惚れても女が困るだろうに」

 そう言って笑いながらレオンは自身のカップを空けてしまう。それは今夜の会話はここまでだという無言の合図だった。

「さあ、夜更かしは明日に響く。そこの若いのにどやされんよう俺たちもそろそろ寝るとしよう」

 少し髭の伸びた顎先で眠り込むクライヴを指し示し、黒髪の男は娘のブランケットを軽く投げてよこす。シャンティは未だ火照った顔のまま慌ててそれを受け取ると、小さな声で1日の最後を飾るその言葉を返した……微かな名残惜しさと共に。

「お休みなさい、また明日」

 翌朝も日の出と共に5人はそれぞれ身支度を整え、卵とベーコンを添えたコーンブレッドを濃いコーヒーと摂る。薄紙に包んだハムサンドと水筒の準備をした後は、また各々が馬の上で個々に働く時間が待っていて、今日もまた南を目指し牛を追っていく旅が始まるのだ。
 今まで恩恵を受けていた川からもそろそろ道を外れ、これからはがらりと趣の違う土地の中に入って行く。兎や野牛の姿も見かけた今までの平野とは違い、厳しい環境にある捕食者たちはより危険で獰猛だ。街道沿いから離れたこんなところを通る者も少なく、地図に記された地形も気休め程度にしか当てにできない。そして度々牛追いたちを襲撃することさえあるという、敵対的な先住民の集落もこの先は増えていく。いつ何時何が待ち構えているかも予測不可能ならば、どんな小さな予兆にも気を張っていなければならないだろう。
 それは大抵の娘なら生涯に1度も知ることのない、想像を超える困難にあふれた長く過酷な旅だった。しかしその渦中にあってさえ、シャンティの固い決意は少しも揺らぐものではなかったのだ。