その夜、ルウェリン伯爵ことウィリアム・クリストフェル・アマーストは王都での滞在先としている小綺麗な屋敷の自室へ戻ると深いため息をついてタイを解いた。

“5人か……”

 小半刻ほど前まで参加していたランデル侯爵家のダンスパーティー、そこである女性と踊った男の数を考える。そのうち2人はこの1週間で既にもう1度彼女と踊っていたことを思い出すなり、彼は薄手の上着を脱ぐこともせずベッドの縁に腰を下ろした。

「アンヌ……」

 頭を抱えて呟く名前はウィリアムが密かにその姿を見守る相手、カッシング子爵令嬢アンヌ・ヴィルジニー・オーブリーのものだ。彼女は現在の社交界において理想的な結婚相手候補の1人と目されており、男たちがこぞってダンスを申し込む光景はもはや見慣れたものになりつつある。そんな彼女にウィリアムは恋をしていた。深く、激しく、止めることなどもはや誰にもできないほどの恋を。
 彼とて伯爵の称号を持ち、故郷の領地は引き継いだ後も変わらず右肩上がりの財を生み出している。加えて優雅な物腰と人を魅了する話術を若かりし頃から持ち合わせているとなれば、40を過ぎた今となっても関心を引こうとする相手には事欠かない。だが未だ気楽な身分に甘んじているのは何も婚姻という制度に縛られたくないからというわけではなく、長い独身生活に終止符を打つに足る相手とただ単にめぐり逢えなかっただけだ。それでも齢43を数えようという今日この日まで清く過ごしてきたとは言い難く、いつしか彼は王都でも5本の指に入る色男としてその名を広く知られている。そしてそれこそがウィリアムと恋しい相手を隔てる何よりの障害になっていた。

『幸い兄も窮しているようなことはございませんしね。姪には地位や財産などなくても誠実な相手と結婚してもらえればと思っておりますよ』

 彼が柱の後ろにいるとはつゆ知らず、アンヌの王都での保護者である叔母のリッジウェイ伯爵夫人がそう言っていたのを思い出す。確かにアンヌの父カッシング子爵は領地こそ田舎の小さなものしかないが、学者肌で既に老齢な彼は実直な人柄で知られており、無駄に財産を食い潰すような話とも無縁の人物だ。アンヌは貧しい家のために人身御供よろしく金持ちの男を捕まえに来たわけでも、王都の享楽的な交遊に耽ろうとしてやって来たわけでもない。単純に故郷では結婚相手となり得る身分周りのいい者がいないというだけで、つまるところそんなオーブリー家が大切な1人娘の夫として最も忌避するだろう男の典型がまさにウィリアムだった。
 若い頃からそれなりに女性との付き合いを重ねてきた彼だが、身を持ち崩したり不誠実な関係に甘んじたことは1度もない。大抵がお互いに納得づくの割り切ったものだったが、傍目には何人もの女性と浮き名を流し、それでいて1人と長く付き合うこともなかったようにしか見えないだろう。その資産が増え続けているのは領地を堅実に運営している証拠なのだが、生憎世間はウィリアムが本当は几帳面で真面目な性格であるということよりも、軽薄で華麗な女性遍歴の方を好んで噂する。まずは茶でも飲みながら生来の人柄を知ってもらいたいと思ったところで、リッジウェイ伯爵邸の門より中に入ることを許される日など来ないことは火を見るよりも明らかだ。
 彼女の生家が困窮していれば財にものを言わせてでも手を伸ばしただろうが、この状況でそんな真似をすればもう2度と顔を合わせられそうにない。多くの淑女たちが垂涎のまなざしを投げかけるルウェリン伯爵夫人という座も、田舎から出てきたばかりのアンヌには歳の離れた遊び人の妻という不名誉な称号というだけだ。絶大な威力を誇るウィリアムの武器も彼女に対してはどれも皆等しく無価値で、釣り合いの取れた求婚者たちは既に長い列を成している。訪れることのない順番を待ち続けるよりも早く、アンヌの結婚を祝う鐘が彼の耳にも鳴り響いてしまうことだろう。
 近づけない。それ以前に、望まれない。そんな彼ができることはただ想い人が姿を見せる場所へと赴き、遠くからその愛らしい表情をそっと眺めるだけだった。どんな娘もそのグレーがかった緑の眸で見つめられればその日の夜には彼のベッドを温めると謳われたウィリアムも、駆け引きのかの字も知らないようなアンヌには気軽に声をかけられない。女性と言葉を交わすまでにはどんな段階を踏む必要があったのか、その手順さえもわからなくなってしまうほどに彼は追い詰められている。報われることなどないのだからせめてその姿を見ていたい。もう1度声が聞きたい。話がしたい。見つめられたい。その手に触れたい。そしてできれば……。

「――っ!」

 甘いカラメル色の目を閉じて彼からの口づけを待つアンヌの姿を思い浮かべ、ウィリアムはそのたまらなく甘美な想像に思わず口元を手で覆う。これが数多の女性から想いを寄せられたルウェリン伯爵かと思うと彼自身情けなくもあるが、呆れるほど悩ましいため息をつきながらウィリアムは寝台に横になった。せめて彼女の髪の柔らかさだけでも確かめたいと思わずにはいられないが、その権利を得るよりもだいぶ前に彼の人生が幕を閉じてしまいそうだ。
 誰も本当の意味でその心を射止めたことのないウィリアム、彼をここまで虜にしたのはもちろんアンヌが初めてだった。そんな相手と偶然出逢ったのはまだ春の初めのある日のことで、彼は散歩をしていた公園でたまたま風に飛ばされたと思しき婦人物の帽子を手に取った。本来ならばその広いつばの下に隠されているはずだった持ち主の素顔、それを他人に先駆けて見ることができたというただそれだけの些細な出来事が、ウィリアムの人生を一瞬にして恋する男のそれに変えてしまったのだ。
 彼女は若く、美しかった。本人の持って生まれた純朴な可憐さは王都広しと言えども滅多にお目にかかれるものではない。愛らしい顔立ちには微かなあどけなさが残っていたが、それさえも胸を高鳴らせるに余りある魅力でしかなかった。流行り廃りのないシンプルなデザインのドレスはその清楚な顔立ちを損なうことなく引き立て、彼女自身の肌のきめ細やかさ、頬や唇のほのかな紅さに自然と目を向けさせてくれる。多くの女性を目にしてきたウィリアムにとって、アンヌがまだ何にも染まっていない純粋さを持っていることを見抜くのは実に容易かった。そんな人物はもはや空想の中にしかいないと諦めて久しい彼の心臓は途端に早鐘を打ち、このめぐり合わせを逃すなとばかりに強く魂に訴えてくる。
 彼が何者かに気づいたアンヌの侍女は一刻も早くその場を離れたいという意思を隠そうともしなかったが、王都にやって来たばかりの素朴な子爵令嬢はウィリアムの身分も、悪名高いプレイボーイであることも当然ながらわかるはずがない。その場で知ることができたのは血相を変えた侍女が何度も主人の袖を引っ張りながら呼んでいたアンヌという名前ただ1つのみで、ウィリアムの方は名乗る暇さえ与えられはしなかった。だが連れ去られるようにその場を後にした彼女が1度だけ振り向いて投げかけてくれた笑顔、その記憶は日々想い煩う彼にとってこれ以上ない心の支えだ。
 その時からもう夏も終わろうという今日この日まで、ウィリアムはずっとその胸の中にアンヌへの想いを秘めている。叶わないと知りながらも、決して諦めることなどできない恋を。