「アンヌ、今日はコールター子爵がお相手をしてくれましたね。お話は弾んだの?」
「……え、ええ。とても感じのいい方でした」
「じゃあリード男爵のご長男は? 先週先方のお屋敷でもダンスをしたでしょう。何か熱心にあなたに話しかけていたように見えたけれど」
「はい、その……私からは先週のお礼を申し上げました」

 居間の肘掛け椅子に腰かけながら、リッジウェイ伯爵未亡人ダイアン・ブライトンは姪がパーティーで会話を交わした相手についての感想を聞くと今夜もまた困ったように眉を寄せる。小さいながらも王都に屋敷を構える身であれば、適齢期の姪を社交界に紹介する役目を担うことに不満はない。兄のカッシング子爵に似て華やかすぎる場所を好まないブライトン夫人はそう顔が広い方でもないとはいえ、毎晩のように催されるパーティーの中でも比較的浮いた噂のない若者を集めてもらうよう手を回すこともすいぶん慣れたと言っていいだろう。だが安心してアンヌを任せられると思われる相手に対しても、肝心の彼女の反応が今ひとつとなれば困惑もしようというものだ。返ってくる感想といえば“感じがいい”か“良さそうな方”のどちらかで、かといってその相手と再び過ごしたいと積極的に思っているわけではないことくらいすぐにわかる。
 ブライトン夫人は向かいのソファーで気まずそうに俯く姪に歩み寄ると、その肩に手を置いて優しく言った。

「少し予定を入れ過ぎてしまったかしらね。あなたも疲れたでしょう、今夜はもうお休みなさい。でも社交の場はお友達を作るためだけにあるわけではないということは覚えていてね、アンヌ」
「……はい、叔母さま」

 贔屓目に見ずともアンヌは美しく、田舎で健やかに育ったおかげか素直で優しい性格になった。誰にでも好かれる性質をした姪はブライトン夫人の自慢でもあり、だからこそこうして引きも切らずに彼女の出席を望む招待状が舞い込んでいるわけだが、アンヌが夫としてどういった相手を求めているのかを叔母はまだ正確には掴めていない。それを尋ねたところで返事は曖昧な具体性に欠けるものでしかなく、本当はまだ結婚などしたくはないのだろうかと思うことさえある。しかしパーティーに出かける時のアンヌはいつもどこかそわそわとして、何かを待ち望んでいるようにも見えることから、人に会うこと自体を嫌がっているというわけではどうやらなさそうだった。

「お休みなさい、叔母さま」
「お休みなさい。いい夢を」

 蝋燭が柔らかい光を落とす廊下で別れた2人はそれぞれの寝室へと戻る。就寝前の身仕度を終え、いつものように綺麗に整えられたベッドの上に横たわると、アンヌは窓から見える丸い月をそっと見上げてため息をついた。彼女はもうすぐ18歳になる。結婚を許されるその歳を迎えるにあたり、信頼できる相手を見つけ幸せな人生を歩んでほしいという両親や叔母の思いが痛いほどわかっているからこそ、心の奥底に秘めた本当の気持ちを打ち明けることなどとてもできはしない。
 婚約者候補として紹介される者たちに文句があるというわけではなく、むしろ時間を割いて相手をしてくれることには申し訳なささえ覚えてもいる。だが冬の訪れと共に社交シーズンが終わりを告げる時、彼らのうちの誰に結婚を申し込まれようともアンヌが喜びを感じることはないだろう。それを黙ったまま叔母を困らせてしまっていることは彼女自身申し訳なく思っている。それでもその真意を明かすことなどできはしない――振り向いてくれるはずもない、受け入れられるはずもない相手に叶わぬ恋をしてしまったからだなどと。

“今日はあまりダンスはなさらなかった。でも長くお話しされていた方は何人も、とても綺麗な方が……”

 ランデル侯爵家にも姿を見せたその相手のことを思い出し、アンヌは我知らず再び吐息を零す。ダンスの間、パートナーの話を全て聞き漏らさずにいることが不可能なのは何もそれが退屈だからというわけではない。ある男性が同じ場所に居合わせる時、彼女はその相手に対していつでも最大限の注意を払っていなければならなかった。長い指が亜麻色の髪をかき上げる仕草を、くすんだ緑の眸が物憂げに細められる様を、1度たりとも見逃したくはなかったのだ。

『これは君のものかな?』

 叔母の侍女の1人と散歩をしていたアンヌが春風に帽子を攫われた時、飛ばされたそれを拾ってくれた相手は不思議な魅力を放っていた。彼は目を見張るような美男というわけでは必ずしもなかったのだが、なぜか視線を逸らすことができないほどにこちらの目を惹きつけてしまう。魅了されるという言葉がこれほど相応しい人物に会ったことなど初めてで、緊張のあまり礼を言うのがやっとであったことは今でも悔やまずにはいられない。しかし腕を引きずるような勢いの侍女に折れた時にはもう彼の姿が心に焼きついていて、勇気を出して振り向いた時にまだこちらを見ていてくれたことには思わず笑みが浮かんだものだ。
 それが艶聞には事欠かない独身貴族、ルウェリン伯爵その人であると教えられたのはそれからすぐ後だっただろうか。その名を聞いた叔母の表情が強張ったのを見た瞬間、アンヌはどんな奇跡が起きたとしてもこの恋が報われずに終わることを知った。噂好きの使用人たちがこぞって口にする彼の話題は目を丸くするものばかりだったが、あの大きな手から帽子を受け取った時に感じた温かさは本当に自分独りの思い込みなのだろうか?
 しかしその人柄がどうであれ、王都を賑わすウィリアムが彼女を相手にすることなど天地が逆になろうともあり得ることではないだろう。いくらでも選択肢のある彼が、わざわざアンヌのような田舎出の子供を選ぶ必要などどこにもない。偶然同じパーティーに居合わせられた時でさえ、広間の対角線上にいたウィリアムは挨拶の言葉1つかけに来てはくれなかった。もし彼がそうしようとしたところで叔母はそれを拒んだに違いないが、そうする必要もないと思われていることがたまらなく辛い。眼中にない、取るに足らない存在である彼女の名前など、きっとウィリアムは知りもしなければ知ろうとも思わないだろう。
 今まで彼と噂になった相手は皆美貌や博識で名高い1流の女性たちばかりで、華やかで魅惑的な彼女たちと年端もいかない自分を比べる度、アンヌは落ち込むあまりにそのまま寝込んでしまえそうな気さえした。自分は離れたところからそっと見つめるだけで精々だというのに、彼女たちはウィリアムとダンスを楽しみ、時には頬と頬が触れてしまいそうなほど近くで秘密めいた話をすることさえできる。その圧倒的な差を埋める術などないアンヌは悲しむことしかできなかったが、それでもこうしてその姿を心の限りにいつまでも思い返してしまう。彼女に関心を寄せてくれる相手にも、一所懸命に世話をしてくれる叔母にも心苦しいばかりだが、それはもはや頭で考えて止められる類のものではない。心はたった1人の人物だけを求め、張り裂けそうなほどに切なく焦がれている。
 彼に逢いたい。あの低くなめらかな声で名前を呼んで、両のかいなで抱きしめてほしい……アンヌがウィリアムに抱いているものと同じ想いを伝えるように強く。そんな日など来ないとわかっていても、無謀な夢を見ずにはいられない。強い想いは隠し続けるのも日に日に難しくなってきていたが、これからも彼に逢いたいと望むならば誰にも知られてはいけなかった。背を向けられるくらいなら、見つめるだけでよかったのだ。アンヌの想いはそれほどまでに深く、そして純粋なものだった。