それが夢ではなかったことは、目を開けてもまだ微笑みを向けてくれるウィリアム自身が証明してくれた。繋いだ指先は緊張しているのがアンヌだけではないことも教えてくれる。信じられないが、信じたい……それでもすぐに実感するのは難しい。名前を覚えてもらうことさえできないのではないかと思ったほどの相手から、ロマンチックな口づけを贈られた後でも現実に頭が追いつかない。

「そろそろ屋敷へ戻ろうか。君が中にいないことに気づいてブライトン夫人が心配するかもしれない」
「あ……でも」
「?」

 優しく手を引かれて立ち上がったアンヌだが、今になってようやくエミリアが戻ってくるかもしれないことを思い出す。そんな彼女の表情の変化で言いたいことがわかったのか、ウィリアムはふと口元を緩ませると秘密を囁くような声で語りかけた。

「ああ、エミリアのことなら気にしなくていい。実はね、彼女は私の頼みで君をここへ連れてきてくれたんだ」
「!」

 驚くアンヌの手を握り、ウィリアムは屋敷の方へと歩き出す。

「ジェレミーは……ボーモント子爵は私の幼なじみなんだよ。その妻であるエミリアとも当然家族ぐるみの付き合いがある。彼らは私の想いを知っていて、だからこそ今日こうして君を招いてくれた」

 こうして2人で戻ってくるとまでは恐らく思っていなかっただろうが、と続ける彼の歩調はアンヌに合わせた緩やかなものだ。このまま人前に姿を現せば誰もが2人に何かが起こったと気づき、もはや冗談としてごまかすこともできなくなってしまうというのに、彼はそんなことなど最初からまるで気にも留めていないかのように見える。

「幻滅したかい? そんな回りくどい手段を使うなんて」

 申し訳なさそうにちらりと視線を送られ、真っ赤になったアンヌは音がしそうなほど何度も首を横に振った。ウィリアムに幻滅することなどあり得ない。むしろそこまでして逢いたいと思ってくれていたことに喜びは募るばかりだというのに。

「……君も家族ぐるみの付き合いの中に入ってもらえれば嬉しいんだが」
「え?」
「アンヌ、私はね」

 広間の賑わいが聞こえてくるところまでやってきた時、そう言われたアンヌは思わず足を止め隣に佇むウィリアムを見上げる。窓からの灯りと月明かりが照らし出す彼は非の打ち所がない紳士で、星空を背にしたその姿はまるで物語を彩る挿絵のようだ。繋いだ片手は離さぬまま、伸ばされたもう片方の手がそっと彼女の髪を撫でる。

「ずっと君と一緒にいたいんだ。どこへ行くにも君と2人、いろいろなものを見て、たくさんの人と出会い、喜びも、悲しみも、その全てを君と分かち合って生きていきたい。こんなことを言うのは早すぎると思われても仕方ないだろうが、私はもう長い間ずっと君に伝えられる時が来るのを待っていた」
「……!」

 さしものアンヌとて、その言葉がどんな意味を持つのかは改めて尋ねるまでもなかった。それはウィリアムが誠実に、真剣に彼女を想ってくれていることをはっきりと示している。身分も歳も目上の彼がただ遊興に耽りたいというだけならば、わざわざ自分を追い込むような下手な真似などしないはずだ。ワルツの音が漏れ聞こえてくる中、アンヌと目線を合わせたウィリアムはそれを証明するように告げる。

「明日の午後、ブライトン夫人に君との婚約を申し込みに行こうと思う……もちろん君が許してくれればの話だが」

 灰味のかった緑の眸が求める返事はたった1つだ。明日その時を待つまでもなく、広間へ入れば叔母がどんな顔をするかなどすぐにでもわかるだろう。だがアンヌは否定の言葉を返すことなどとてもできはしないのだ。あのルウェリン伯爵のプロポーズを受けながらにしてその申し出を断ることなど、彼女でなくとも一体誰がそんなことをしようというのだろう。いかなる相手にも結婚をほのめかしたことがないという彼の噂が真実ならば、アンヌはこれまでの誰とも異なるたった1人の例外となる。ウィリアム・クリストフェル・アマーストという男性に1人の女性として愛された、その心を掴んだ証として。

「本当に、私と……?」

 それでもそう尋ねずにはいられないアンヌに彼は困った様子で苦笑する。そんな表情にすら胸は高鳴り、ときめくあまりに呼吸をすることまでもがままならなくなってしまいそうだ。想いが実ったからといっても恋心は落ち着く素振りなど見せず、恋人の新たな一面を知る度に更なる喜びが駆け巡る。幸せすぎて恐いというのはきっとこういうことを言うのだろう。

「自分の噂がどんなものかは承知しているつもりだがね……私は君の想像よりもだいぶ真面目な男のつもりだよ。誰にでもこんなことを言うと思っているなら認識を改めてもらわなければいけないな」

 そう告げた唇がそのまま彼女の頬を掠め、その瞬間に伝わるウィリアムの想いはアンヌの全てを満たしていく。たったそれだけのことでこんなにも幸せにしてくれる相手が2人といるとは思えない。そんなことを考えるのはまだ自分が幼いからだとわかっていても、差し伸べられたこの手を拒んで一体何になるというのだろう? 想う相手に想われる、その幸運は決して誰もが等しく手にできるような類のものではないのだから。
 その結論を導くにはきっともっと時間をかけるべきで、お互いのことをまだ何も知らないと言われればそれは否定のしようがない。だが例えそれが間違っていたとしてもアンヌの答えは決まっていた。惹かれていると気づいた時からずっと大きくなるばかりの望みが報われた今、もしもこれが夢だと言うならもう2度と覚めなくても構わない。

「……幸せすぎて言葉になりません。ありがとうございます、ルウェリン伯爵……」

 喜びが大きすぎるあまりに何を言えばいいのかもわからず、ただそれだけしか口にすることができないアンヌにウィリアムは優しく目を細める。

「そう思ってくれるならこんなに嬉しいこともないよ。だが……よければ今度からは名前で呼んでくれないか」
「名前?」
「本当は堅苦しい称号で呼ばれるのはあまり好きじゃないんだ。こんなことを告白するのは気恥ずかしいが、君の口からウィリアムと呼んでもらえる日をずっと夢見ていたものでね」

 僅かに顔を赤らめ、声を落として囁かれたその言葉の可愛らしさにアンヌは思わず微笑んでしまう。彼の声で名前を呼ばれる時、どんな幸せを感じられるのかその身を以って知っている彼女はウィリアムの願いを拒まない。

「わかりました、ウィリアムさま」
「!」

 彼の目に新鮮な驚きと喜びが広がっていく様をこんなにも間近で見ていられる、それを今しがたまでの自分に教えることがもし仮にできたとしても、果たしてアンヌはそんな言葉を信じることができるだろうか。だが信じられないというならそれでも一向に構わない。あの真摯な告白を再び捧げてもらえる奇跡を手にできるならば、何も知らないままでいられる方がより大きな幸福を得ることもできるだろう。
 そして彼と共に小さな石段を上がったアンヌは、広間と庭とを隔てる扉に手をかけたウィリアムから最後の問いを受ける。

「さあ、一緒に注目を浴びる覚悟はいいね?」

 アンヌはそれに大きく頷き、彼は眩しいほどの笑顔を返すと繋いだ手をぎゅっと強く握る。それを合図にダンスが始まったばかりの大広間へと続く扉を開けると、2人は揃って居並ぶ人々の前に姿を現した。