こんなに間近でアンヌの姿を見ることができたのは2ヶ月ぶりだ。遠くからちらりと眺めた時にはわからなかったが、バルトーズ家で踊った時と比べると心なしか線が細くなったような気がする。それも呆れるほどの侮辱のせいかと思うと再び怒りも込み上げようというものだが、それは今この時に考えるべきことではない。友人夫妻が彼のために整えてくれた舞台はここまでであり、後はウィリアム自身でアンヌと向き合う時がやって来たのだから。
 彼女が数日後には王都を離れるという噂は現実のものとなる。アンヌはもう戻ってこないつもりなのかもしれないし、ここで知り合った誰かが遥々彼女の郷里を訪ねていかないとも限らない。そこで新たな恋が生まれたところで彼はそれを知ることさえできず、さりとて自身の訪問をアンヌが歓迎してくれるとも思えないとなれば、残された時間がないに等しいウィリアムが腹を括るに十分だった。
 悲惨な出来事を経てしまった後となってはもはや遅すぎるかもしれないが、もうこれ以上その想いを心に秘めたままではいられない。冗談はやめてくれと一蹴されたとしても、去り行く彼女を黙って見送るよりは遥かに辛くないだろう。ここまで嫌われてしまったのならば今より悪く思われることもない。姪の姿が見えないことをブライトン夫人が訝しむ前に、長らく告げることのできなかった言葉を打ち明ける機会は今だけだ。

「隣に座っても構わないかな? 立ったままでは話もしづらい」
「あの……っでも、私」

 逃げるように立ち上がったアンヌの怯えた様子に胸が詰まる。その肩に優しく手を置くことでもう1度彼女を座らせながら、自分も腰を下ろしたウィリアムは視線を合わせると意を決して言った。

「エルストン伯爵令嬢が君に謝罪しようもなく酷いことを言ったそうだね。それも私に関係したことで」
「!」

 アンヌの愛らしい顔がさっと青褪め、理不尽に受けた苦しみの深さを彼に突きつける。ウィリアムは思わず彼女から目を逸らしてしまったものの、何とか踏み留まって言葉を続けた。

「申し訳ない、私のせいでおかしな因縁をつけられてしまうなんて。謝って済むことではないが、君のためにも言わせてほしい。本当にすまなかった」
「ですが……伯爵はあの方とご結婚されるのでしょう?」

 途切れがちな声にはっと顔を上げると、アンヌは零れそうなほど涙を溜めた眸で悲しそうにこちらを見ていた。余計な刺激を与えて面倒なことになるよりはと、ヴァネッサを野放しにしていた過去の自分がどれほど間違っていたのかを痛感する。

「彼女とは結婚しないよ。それだけはあり得ない」
「……!」

 その瞬間にアンヌは驚いた表情を見せ、言葉の真意を尋ねるようにウィリアムを見つめ返した。伝えたいこと、伝えなくてはならないことはあまりにも多く思えたが、その全ては喉元まで出かかっているのにただの1つも言葉にはならない。だが何よりもまずしなくてはならないことはアンヌの呪縛を解くことだ。ヴァネッサの呪いから想い人の自尊心を解き放つことができなければ、ウィリアムには想いを告げる資格さえありはしないのだから。

「おとといはっきり断った……そしてその時に彼女が君を傷つけたことを知ったんだ。ずっと知らずにいた自分が情けない、君をこんなに苦しめてしまっていたのに」

 涙を浮かべたその姿でさえ胸が締め付けられるほどに愛おしく、こんな女性を前にしてヴァネッサはよくもあんな言葉を言えたものだと呆れてしまう。長らく抑え込んでいた深い恋心は枷を失って燃え上がり、ウィリアムはほとんど無意識のうちにその言葉を囁いていた。

「……君は綺麗だ。少なくとも私はずっと君を1人の女性として見てきた。子供だなんて、そんな風に感じたことは1度だってありはしない」

 それは彼の本心だったが、単なる事実以上の想いがその中にははっきりと込められている。

「君に出逢った時からそう思っていた。ただ君は私のような男など相手にはしないだろうし、そんな対象として見てさえいないだろうから打ち明けることはできなかった。だが――」

 その言葉を実際に告げるまでには大きな勇気が必要だった。それは今までの人生で数え切れないほど口にしてきたものと同じはずなのに、アンヌに伝えようとする時だけは比べものにならない重みを帯びる。それでも言わずにはいられない。伝えなければ進むことはもちろん、戻ることさえもできはしない。たった一言の言葉の中に、彼女を想い過ごした日々の全てを込めてウィリアムはアンヌにそれを告げた。

「アンヌ、君が好きだ……ずっと君を見ていた。初めて逢ったあの日から」

 それからどれだけの時間が経ったのだろう。実際にはほんの数秒足らずだったろうそれは1時間と言われても信じてしまうほどに長く感じた。アンヌは黙ったまま、瞬きもせずにただじっと彼を見つめている。だがその目に滲んでいた涙がついに雫となって頬の上を伝い落ちた時、彼女の唇が微かに開いたことをウィリアムは見逃さなかった。

「本当……ですか……?」

 泣き出すほどに嫌だったのかと内心は激しく狼狽えもしたが、かき消えそうな声で告げられたそれに拒否の色は見出せない。だからこそウィリアムは全てを賭けた。あらゆる可能性の中で最も小さく、それでいて最も渇望したそれが現実になるよう心の底から祈りつつ、彼は長らく秘めてきた想いの丈をもう1度真摯にアンヌへと語る。

「本当だよ。私は君が好きだ。どうしようもないくらいに好きでたまらないんだ……いつも君のことを想っている」

 それを聞いた彼女の目から零れる涙は染まった頬を止め処なく濡らしていく。ウィリアムがそれを拭おうとした手にアンヌの掌が重なり、驚く彼を見上げた想い人は夢見た光景と同じ言葉を紡いだ。

「私も、あなたをお慕いしています」

 涙混じりの微笑みは純粋な想いと喜びにあふれている。飾りなどいらない、最も単純な愛の言葉。だがそれを求め、待ち侘び、苦しいほどに焦がれては眠れずに過ぎていった幾つもの夜は、ついに望んだものを手に入れた瞬間に切なくも懐かしい思い出へと変わる。ウィリアムが彼女を想っていたように、アンヌも彼を慕っていてくれたと知る喜びに恵まれた今は。
 2人の眸には幸せそうなお互いの姿だけが映っていて、叶わぬ恋が実った嬉しさがその表情を輝かせる。いつまでもこうして愛しい恋人に触れていたいという気持ちに抗わぬまま、ウィリアムは優しくアンヌを抱きしめては蜂蜜色の髪を撫でた。彼女は逃げ出すこともなく、愛撫を拒むこともない。それどころかその腕は彼の背中に回され、こよなく愛しい存在の温もりを疑いようもなく教えてくれる。

「……アンヌ」
「はい?」
「キスしても構わないか?」

 しばしの後、抱擁を解いたウィリアムはアンヌの手をそっと握るとそう尋ねた。そんな許可を得たことなどこれまでは1度たりともなかったが、アンヌにだけはなぜかそうして彼女の意思を確かめたかった。アンヌに合わせ、1つ1つの段階をゆっくりと2人で歩んでいきたい。彼女が望む時、望んだ形でそれらの願いを叶えていきたい。そうできるのは自分1人だけなのだと何度でもこの胸に刻み込みたい。

「……はい」

 恥じらいながらそう答えてくれたアンヌが長い睫毛を震わせて目を閉じると、ウィリアムはうるさいほどに鳴り響く鼓動の音を聞きながら優しいキスを彼女に贈った。