――その夜、帰りの馬車は静かだった。アンヌは向かいで黙ったまま俯いている叔母を見ながら今しがたの出来事を思い返す。

「リッジウェイ伯爵夫人、ご挨拶もせずに失礼しました。姪御さんをお返しします」

 ひとしきり続いたダンスも終わり、パーティーが幕を下ろそうかというその時、ウィリアムは彼女の手を取ったまま真っ直ぐにブライトン夫人の元へと歩み寄った。離れるのが寂しいという想いも露わにアンヌを見つめた灰緑の眸は緩やかにその叔母へと視線を移し、心なしか少し落とした声で約束を取り付ける言葉を発する。

「そして突然で申し訳ないのですが折り入ってお話ししたいことがあります。明日、ご自宅にお伺いする許可をお与えいただくことはできるでしょうか」

 この状況でするべき、しなければならない話などたった1つしかない。かわいそうなほどに狼狽したブライトン夫人は何も言えずに彼を見上げていて、居た堪れなくなったアンヌは叔母の手を取るなり自ら声をかける。

「叔母さま、私――」
「待って、待ってちょうだい。アンヌ、私には一体何が何だか……」

 力なく首を振った後、姪に縋りつきながら何か途方もないことが起きたかのように項垂れた叔母には心が痛んだ。手放しで祝福を受けられるという期待をしていたわけではなかったが、アンヌがウィリアムを選んだことは一所懸命にお膳立てをしてきてくれた思いを裏切ってしまったも同然だろう。だがそれでもこの恋を諦めることなどできない彼女が困り果てて顔を上げると、ウィリアムは同じく悲しげな顔をしながらも小さく頷きブライトン夫人に告げた。

「……差し支えなければ明日の午後3時にお伺いします。話を聞いていただけるようでしたらお時間を取っていただければありがたい」

 そして短く別れの挨拶をすると、彼はとろけるようなまなざしをアンヌに投げかけてから去って行った。それから彼女は叔母と共にハイラント夫妻へ招待の礼をしたはずだが、アンヌは既にどんな言葉を交わしたのかも覚えていない。馬車へと戻った叔母は黙りこくり、アンヌの目を見てもくれなかった。
 元はダイアン・オーブリーという名だったリッジウェイ伯爵夫人には子供がおらず、それだけに一層幼い頃からアンヌのことを可愛がってくれたものだ。王都を訪れた姪の世話役を買って出てくれただけでなく、歳頃の娘らしい装飾を施した部屋をわざわざ用意してくれたり、たくさんの店を梯子しながら一緒にドレスを選んでくれたりと、まるで本当の親子のように過ごした時間がかけがえのないものであったことに変わりはない。できる限り姪に似合いの相手を探そうと骨を折ってくれたことも、友人の伝手を頼ってパーティーを開いてくれるよう手配してくれていたことも、その全てには感謝の気持ちこそあれ他意などとんでもないばかりだ。
 それでも誠実な結婚相手と言って名前が挙がることなどまずないだろう相手と想い合う仲であることを、一言の相談もなくあの場で見せつけてしまったことの代償は大きかった。

「――いつからだったの?」

 あと少しで見慣れた屋敷に着くというその時、独り言でも呟くようにブライトン夫人がぼそりと尋ねる。その問いは姪がどの時点から彼を特別な想いで見ていたのかを問うものだ。アンヌは叔母を傷つけることのない言葉を必死に探そうとしたものの、生来嘘をつくのが下手な彼女は真実を告げることしかできなかった。

「レント侯爵夫人のパーティーに行く前からだと言ったら、叔母さまはきっと悲しまれるでしょうね」

 それは叔母の友人の1人が開いてくれた催しであり、またアンヌが初めて社交界に足を踏み入れた記念すべきパーティーだった。ブライトン夫人は失望に目を見開き、姪の心が始めからルウェリン伯爵のところにあったこと、そして自分の努力が全て無意味な空回りだったことを知る。

「そんなに前から……」

 その声には落胆の響きが如実に表れていて、アンヌは胸の奥に深く突き刺さる鋭い痛みに耐えねばならなかった。名を告げても喜んでくれる相手であればこんな顔をさせることもなかっただろう。叔母の思いを蔑ろにしてしまったことは変えようのない事実で、それについてはどれほど謝罪したところで足りないこともわかっている。
 だがウィリアムも自分を想ってくれていたということを知ってしまった今、彼と別れることなどもう一瞬たりとも考えられはしなかった。アンヌの心を幸せで満たしてくれたのは叔母の目に適った青年たちではなく、下手をすれば彼女と同じ歳の子供がいてもおかしくはないようなルウェリン伯爵だったのだから。

「叔母さま、お願い――」

 どうか彼との交際を許してほしい、そう乞おうとしたアンヌが言葉を継ぐ前に馬車は屋敷へと到着する。

「叔母さま……!」

 彼女は無言のまま家に入った叔母を追いかけてもう1度その背を呼び止めたが、足を止め僅かに振り向いたブライトン夫人は暗く沈んだ声でアンヌに言った。

「ごめんなさい、今夜はもう休みたいの。あなたとも……誰とも話す気にはなれそうもないわ」
「……!」

 淡い光が照らす廊下を足早に去って行くその後ろ姿を見送る以外、アンヌにできることなどもはや何も残っていなかった。
 叔母として、また王都での親代わりを務める後見人として、ブライトン夫人はアンヌの両親夫妻から全ての権利を委任されている。婚約者の選定にあたってもその権限に例外はなく、婚約を望む者を受け入れるかどうかを判断するのはアンヌの叔母だ。従って彼女との未来を夢見る者は誰しも、ブライトン夫人に認められない限りその先へ進むことはあり得ない。
 きっと叔母はウィリアムに会ってはくれないつもりなのだろう――灯りの消えた部屋の中、アンヌはブライトン夫人の虚ろな目を思い出しながらそう思わずにはいられなかった。優しい叔母をこんな目に遭わせた自分は見下げ果てた姪であり、その願いを聞き入れてもらう資格など元よりどこにもありはしない。周りの者を傷つけながらも実った恋を捨てられず、さりとて彼を想うことさえ止められないアンヌを世間はどんな風に思うだろうか。

“ああ……ウィリアムさま……”

 だがそんな時でもアンヌが祈りを込めて呼んでしまう名はたった1人だ。ウィリアム以外の誰とも同じ想いを育むことなどできない以上、叔母の許しがなければアンヌはそのまま故郷へ戻ることになるだろう。こんな話が耳に入れば両親も立腹することは間違いなく、下手をすればもう王都へ出ることすら金輪際禁じられてしまうかもしれない。
 それでもこの恋は真実なのだと周りに証明したければ、できることはただ与えられる試練の全てにひたすら耐え抜くことだけだ。逢うこともできず、文の1つも交わすことさえ許されず、何年も離れ離れになったままだとしても、それでもお互いをひたむきに想い続けて2人の仲を認めてもらわねばならない。それがどんなに苦しく厳しいものかは想像するに余りあり、その間にウィリアムの気持ちが変わってしまうことさえ決してないとは言い切れないだろう。待ち受ける不安はあまりにも大きく、今夜手にしたはずの幸福さえも霞んでしまいそうになるほどだ。
 それでもアンヌは彼が打ち明けてくれた言葉を信じたかった。せめて自分の真心を捧げ続けることで寄せてくれた想いに応えたかった。彼女自身の望みはどんな時でもたった1つなのだ――ウィリアムに愛される花嫁になりたい、その純粋な願いだけだった。