『この女を殺してほしい』

 そう言って渡された写真を無感動に見つめながら、男は琥珀色の液体が注がれた無骨なグラスを傾ける。薄暗い場末のバーに他の客の姿は1人も見えず、歌い手の哀愁のこもった唄の他には店主が磨く酒の瓶が棚に置かれる音しか響いてはこない。そのカウンターにいくつか設えられた粗末な椅子の1つに腰掛け、男は昼間会った小綺麗な服装の男と交わした会話を思い出していた。

「……理由は?」
「そんなことを話す必要があるのか?」

 本当は理由など何でも構わない。ごく稀に親の仇といった“まとも”な手合いの仕事を持ち込む者もいるが、大抵は殺し屋を見下しつつも金で邪魔者を消そうとする者ばかりだ。下層の者を軽蔑し、それでいて自らの罪を肩代わりさせる、それがどれほど滑稽か気づいているならそもそも依頼などしてはこないだろう。到底悪趣味極まりないが、男はそんな依頼者たちの仮面を引き剥がし本性も露わな姿を見るのが好きだった。

「言えんのなら他を当たってくれ」

 踵を返そうとした男を慌てて引き留めた相手は歯切れも悪くその問いに答える。

「目障りなんだ。この女が生きてると都合の悪い方々が多いのでね」

 大方どこかの金持ちの妾か何かなのだろう。要するに、写真のうら若く美しい娘によって生み出される富を羨む者や、あるいはもっと単純に彼女自身を妬む淑女が世の中には存在するということだ。

「金は?」
「言われた額を用意した。前金は今払う」

 依頼人は何の変哲もない鞄の口を開けると番号の続かない古札の束を見せ、殺し屋の男は1度頷くと手を伸ばしそれを受け取った。命の代償としてはあまりにも軽いそれを手にその場を去ろうとした男に、依頼者はちらちらと腕時計を見ながらどこか早口にまくしたてる。

「残りは女が死んだらだ」
「結構」
「いつ殺してくれる?」

 交渉を終えて足を踏み出した殺し屋を依頼人はまたも引き留め、残忍な光を宿した眸で知りたくてたまらないといった風に尋ねる。その声に良心の呵責はおろか、人らしい感情などどこにもない。

「いつとは言えん。ただし近いうちだ」
「必ずだな?」
「――くどい」

 そして男は今度こそ振り返らずに話の終わった場を離れた。
 彼が仕事の前に必ず立ち寄ることにしているその酒場は、まだ若かった頃から少ない酒代を手にしては足を向けている馴染みの場所の1つだ。既に老いた店主は男が何者なのかに薄々気づいていたが、それから30年近くの時が流れてもなお単なる客以外の扱いをしたことはない。心地良くさえ感じる無関心の中、一向に酔いの回らない頭で男はセピア色の写真に目を向ける。彼は1度受けた依頼ならば老人から子供まであらゆる相手に刃を突き立て、あるいは斬り裂き血を流させていくつもの命を奪ってきた。犠牲者たちが最期の瞬間に見せる命の輝きが美しいほど、依頼人たちの濁った眸は一層醜く見えるものだ。他人の死を早めたいと望む時、その者もまた同じく死の淵にいるということに彼らが気づくことはない。
 依頼人を選びこそすれ殺す相手はついぞ選ばず、死んで当然の悪人から何の落ち度もない善人まで人生の幕を引いてきた彼が銃器の類を意図して使わないのはまさにそのためだ――闇の業を終の仕事に選んだ時から、己が奪った命の重さを決して忘れることのないように。太陽の下を胸を張って歩けるような立場の人間ではない、それを知っているかどうかという点において殺し屋は依頼人よりも崇高でありたかった。肉を裂き、返り血を浴びる度に鮮明になるこの行為の罪深さ。それに少しでも目を背ければたちまち人の形をした獣に成り下がってしまうということを、誰から教えられるわけでもなく彼ははっきり知っていたのだ。
 近いうちとは言ったものの、男は仕事を今夜のうちに済ませるつもりでこの店に赴いた。あと数時間も生きられない哀れな犠牲者の姿をもう1度その目に焼き付ける。殺す対象に同情はなく、そこまで死を願われるほどの何かがこんな娘にあるとも思えなかったが、彼の仕事道具である大振りのダガーはもうすぐ彼女の血で濡れる。初めて他人の命を奪った時から男が失敗したことはない。写真の中で微笑む女、ルーチェ・フェレイラはまもなく死ぬのだ。
 無言のまま酒代を置き、殺し屋は黒い帽子を頭に載せると闇に包まれた路地へ出た。娘の住まいはほど近く、舗装もろくにされていない通りには誰の姿も見当たらない。月は細く、その光はかろうじて物の輪郭を浮かび上がらせる程度だったが、それだけに彼が仕事をするには絶好の条件が揃っていた。
 貧民街と呼ばれる地域、その外れに女の家はあった。通り過ぎてきたバラックよりも更に酷い造りのそれに灯りはなく、夜も更けた時刻も鑑みれば既に床についているだろうということがわかる。眠っている相手に引導を渡すことほど楽な仕事もなかなかない。ろくな施錠もされていないあばら家に男は苦もなく忍び込むと、持ち前の勘で目的の女がいそうな場所まで進もうとし――慣れた臭いが漂っていることに気づいた。

「……!?」

 まだ新しく、生々しい血の臭い。心臓がどくりと音を立て、殺し屋はもはや足音を隠そうともせず手近な扉を勢いよく開いた。

「!!」

 薄くも明るい月が照らし出すのは1組の男女の事切れた死体。何が起こったのかを察した彼は弾かれるようにして狭い廊下に飛び出し、突き当たりにある部屋の扉を体当たりでもするかのように跳ね開ける。

「……やられた」

 開いた窓から吹き込む夜風にふわりと膨らむカーテンの下で、写真に映っていた標的の女が身体中から血を流して倒れていた。やり口は粗く、洗練された殺しの技術を持たない者の仕業ではあったが、それが彼と同じく“依頼”された者の仕業だということくらいはすぐにわかる。もしも金が目当ての者ならこんなところを狙いはしない。恐らく自分は謀られたのだ。何口もの依頼を同時にかけ、最も早く殺した者にのみ追加の報酬が支払われる……大方そんなところだろう。
 蔑まれるのは構わない。だが侮られることこそを男はこの世の何より嫌っていた。そんな思惑が少しでも見えればどんな高額な報酬を提示されたところで決して首を縦に振ることはないが、それでも運悪くそんな依頼者を見抜くことができなかった時、殺し屋は仕事をこなした後でその相手にもまた同じように死をもたらしてきた。
 ――だが今回ばかりは度が過ぎる。

「……う……」
「!」

 怒りのあまり殺し屋が拳をぐっと握りしめたその瞬間、死んだと思っていた娘の口から微かな呻きが絞り出される。男は無意識のうちに女が倒れているその場所まで駆け寄ると、血まみれの身体を抱き起こしながらその息があることを確認する。

「おい」
「…………」
「おい、しっかりしろ!」

 ぐったりと力の抜けた身体は確実に死へと近づいてはいたが、それでも女の命の炎はかろうじて消えてはいなかった。それを確かめた殺し屋の胸にほの暗い復讐心が湧き上がる――彼を見くびった代償は如何程のものか、それを教えてやるために。

「女、お前を助けてやる」

 虫の息の娘に向かって男は一方的にそう言うと、腰に巻かれた道具鞄からいくつかの薬を取り出した。手早く傷の手当てをしながら小瓶の中身を口に含み、抱き上げた女へと唇を合わせて気付けの薬を流し込む。

「生きろ。お前を死なせはしない」

 弱まっていた鼓動が再び脈打ち始めたことを確認すると、殺し屋は未だ血に濡れたままの女を背負って外の闇の中へと消えた。