炉端で風に煽られる新聞の土埃を払って拾い上げ、男は何日か前の日付が印刷されたそれをめくりながら斜めに視線を走らせる。多くの紙面を割かれていたのは遠い国での戦争についてだが、冷たいブルーグレーの目をした殺し屋はそんな話題に見向きもしない。

『民家で殺人、一家3人が犠牲に』

 雑事をまとめた小さな欄にようやく目当ての記事を見つけ、男はあの惨劇が世に出たということに少なからぬ驚きを感じていた。この件には彼女が存在した痕跡ごと葬ることなど造作もないだろう連中が関わっているはずで、こうして情報が出回れば縁のある者の目に触れないとも限らない。申し訳程度の要領さえ得ない記事であることは差し引くにせよ、不明瞭ながらも娘の名前まで記されているとは思わなかった。

『……娘ルーチェの死因は大量出血、死亡推定時刻は……』

 既に期待などされない腐った官憲は死体を探すことを放棄したらしい。真実の追求を止めて久しい新聞を始めとする報道も同じだ。死を免れないほどの重傷を負ったということまでは事実だとしても、亡骸がその場になかったという話はこれで永遠に闇の中だ。
 殺し屋はもはや用のない新聞を再び路端へ向かって投げ捨てると、角を曲がった先にある商店でいくつかの食べ物と水を買う。そして薄汚れた服に身を包んだ者たちが行き交う通りを足早に辿り、ねぐらと呼ぶのが相応しいだろう簡素な自身の部屋へと戻った。
 造り付けの寝台以外に家具もなければそもそも物自体が少なかったが、そこはそれでもなお息が詰まってしまいそうな僅かな空間だけしかない。その部屋に生活感というものはなく、男にとっては文字通りただ眠るためだけにあるような場所だというのに、彼は木枠の歪んだベッドが軋む音をここしばらく聞いていなかった。なぜなら部屋のあるじが休むべき場所には若い女が横たわり、懇々と眠り続けこそすれ目を覚ます気配はなかったのだから。
 治安の良くないこの辺りでは今この時も物騒な物音が響いてくるが、それでも起き上がることのないその娘は新聞記事の写真と同じ顔をしていた。彼女の身体には死に値するような無数の深い傷があり、いくつかは痕が残るものもあるだろうが、それでもその鼓動はあの夜よりも幾分かしっかりと持ち直してきたように思える。
 男は買ってきた水の封を切りそこへ口をつけて瓶を傾けると、未だ眠りに落ちたままの女に口移しで少しずつそれを与えた。娘はそれを面白いようにこくりと音を立てて飲み込み、その渇いた仕草がなくなるまで男は女に水を与え続ける。水分がなければ血は造れず、そして血が足りなければいずれ死ぬ。これ以上ない復讐の駒として、娘には生きていてもらわなければ困るのだ。
 一通り女の喉を潤し殺し屋がその身を離した後、娘は微かに身じろぎしたもののその目が開くことはない。しかし男がやおら彼女に背を向けようとした瞬間、耳慣れない澄んだか細い声が囁くように部屋に響いた。

「……シルヴィオ、さま……」

 はっと振り向いた男の目に、一筋の涙を流す女が映る。かと言ってついに目を覚ましたというわけではなく、大方魘されてでもいるのだろうが、その姿はどこか幻想的で儚くも美しいように思えた。
 だが殺し屋である男はこの娘を助けたことに報復以上の意味など見出さない。生業でこそ命を奪っているとはいえ、彼は決して殺人を愉しむ趣向があるというわけではなかったし、従って仕事絡み以外で他人の命に手をかけたことなど1度もなかった。今回のケースは非常にイレギュラーで、依頼人に裏切られたと言っても差し支えのない状況だからこそ敢えて生き長らえさせたわけだが、それについて殊更深く考えを巡らせるつもりもなかった。どちらにせよ、女の命を彼が握っていることに変わりはない。

“シルヴィオ……そいつが原因か?”

 巷にありふれた男の名、そこから何かを割り出すことは不可能だろう。しかしこの若い娘が無意識のうちに口に出すほどの存在であり、そんな彼女が邪魔で邪魔で仕方がない者たちがいることははっきりしている。もしかすると何人もの人物が別々に殺害を依頼していたことさえあり得なくはない。だが何にせよ殺し屋は自らの標的を他人に先んじて殺されることも好きではなかった。
 そしてこの件が非常に稀であるという理由は他にももう1つだけある。男は初めて自分が殺すべき対象に微かな興味を持った。善良な人間を手にかけた時でさえ深く知ろうとはしなかった相手のことを、この女に限ってはもう少し探ってみたいと思ったのだ。目を覚ませば人を惑わす妖女の魂が入っているかもしれないし、あるいは自らの与り知らないところで恨みを買った平凡な娘かもしれない。殺してもいいし、殺さなくてもいい。それは彼女がその目を開いた後に改めて決めればいいことであって、今無理に判断を下さなければならない理由などどこにもなかった。
 彼の新たな寝床となった冷たい床に手足を投げ出し、男はしばしの間その目を閉じると浅く短い眠りに就く――そして夢とも言えない夢を見た後、彼はベッドの枠がぎしりと軋んだ音によって目を覚ました。素早く立ち上がり寝台に向き直ると、沈む夕陽に照らされてなお青白い顔の娘が半身を起こしてこちらを見上げている。

「起きたか」
「あ……なた、は……?」

 包帯だらけの身体に見知らぬ部屋、そして会ったこともない男。まだ若い娘が怯えるのも当然の条件が全て揃っている。淡い緑色をしていた女の眸が混乱と不安に酷く揺れ、それでいて唯一状況を理解しているだろう殺し屋を縋りつくような目で見つめた。

「お前の親は死んだ」
「……!」
「そしてお前も死んだ。少なくとも世間はそう思っている」

 それだけで娘には何が起こったのか概ねわかったようだった。もしくはあの夜以前の記憶を思い出したと言った方が正しいのかもしれない。俯いた女は震える両手で古い上掛けの端を握りしめ、理解できた範囲で浮かんだ疑問を男に問いとして投げかける。

「あなたは……私を助けてくださったんですか?」

 殺し屋は微かに眉根を寄せた。一言では答えづらい質問だと感じたのだ。

「俺はお前を殺しに行った」
「えっ?」
「だがお前は既に死にかけていた。俺は……」

 男はそこで1度口を噤む。娘の目が驚きと恐れ、そして謎と不安に満ちて彼を見つめ返す……その先に続くはずの言葉をあたかも待ち詫びているかのように。

「状況が変わった。俺はお前に生きてもらわなければ困る」

 必要最低限の端的な事実だけを掻い摘んだかのようなその返事に、娘は複雑な表情を浮かべた後でその視線を自らの白い手に落とした。

「……ではあなたも“依頼”を受けた方ということですね」
「!」

 そんな歳頃で命の危険に晒される者など数少ない。女自身がそれを知っていたとは思いもしなかった殺し屋は面食らう。襲撃を予期しているような相手は多かれ少なかれ本人にもそれなりに後ろ暗いところのある者が大半であり、目の前の一般人そのものといった娘がそんな輩の同類とは考えにくかったのだ。

「そういったお仕事をされている方なら折り入ってお願いしたいことがあります」
「?」

 だが彼を更に驚かせたのは女のどこか達観したような雰囲気ではなく、その緑の目を男に向けて口にした次の言葉だった。

「どうか私を殺してください。そうすれば何もかも終わらせることができますから」