その朝、並んで眠る2人のうち先に目を覚ましたのは男だった。最も昼間でさえも薄暗い部屋で明け方近くに目覚めたのは、彼が右腕に負っている銃創がもたらす疼痛故だ。ちらりと横を見やれば昨晩もたっぷりと愛し合った女が穏やかな眠りについている。起こさぬように気をつけながら頬にかかる髪を上げてやると、美しい娘は心なしか少し微笑んだように思えた。
 ノアの右手が動かせることはいい兆候ではあっただろう。だが“古風”な手口の殺し屋にとってこの傷は仕事の成果を直接的に左右する要因となる。いかに標的でも無駄に苦しめることを良しとしない彼には、例えそれが憎い相手だろうとシルヴィオのように無駄な血を流させることは本意ではなかった。利き手をかつてのように俊敏に捌くことができなくなれば、長い間ノア・ロメロという男を彼たらしめてきた矜恃は失われてしまうことだろう。
 その危機感を抱いた彼はあの日、ルーチェと交わった夜が明けると独りで闇医者を訪れた。しかし微かな希望と共に尋ねた問いへの返答は無情だった――“繊細”な仕事はもう無理だと。どこかで予想はしていたものの、いざはっきりと言葉にされれば受ける衝撃は酷く大きい。白髪も残り少ない医者はそう悲観をするなと言った後、黙りこくった殺し屋に向かって何かを諭すように告げた。

「ノア、何かを始めるのに遅すぎるなんてこたあない。要はお前さんにその気があるかどうかだ。時には馬鹿な真似もしてみるもんさ、男ならな」

 ――そんな会話を交わしたのはもう1週間も前のことだ。それでもルーチェに闇医者の言を打ち明けることはできていない。男としてそれを伝えることは耐えられない屈辱であり、同時に娘の良心を苦しめるものでしかなかったからだ。こうなることを恐れて彼女はその身を投げ出したというのに、自ら身代わりを買って出て追い詰めてしまっては元も子もない。
 だがこのまま殺し屋を廃業し他の手段を見つけて生きていく、そんなことが今更本当にできると言い切れるのだろうか? ノア自身とその職業はもはや切り離して考えられず、杜撰な仕事で殺し屋の生業を名乗る気もないとは言え、それしか知らずに生きていた彼が肩書きを外されることは、まるで自分が自分でなくなるような根本的な不安が募る。
 恋しい女を護ったことは後悔などするはずもないが、彼女の重荷になる男としてその傍にいるのは辛かった。そして同じように深い想いを寄せてくれているとわかるからこそ、このままではいつか愛情が負い目から苦しみに変わるだろう。
 彼にとって唯一何よりも優先させるものはルーチェだ。等しく愛し、愛された人生にただ1人だけの女。彼女は傍にいればどんな時もノアを支えてくれるだろう。さりとて殺し屋は愛した娘に罪悪感を与えたくはなかった。責任感によってではなく、愛情故に求めてほしい。だからこそいつか彼の存在を厭わしく思われるよりは、自ら楽園を去ることこそが最良の道と信じたのだ。
 悩み、愛し合った日々の果て、女が目覚める前に男は静かに立ち上がり服を着る。イザベラは娼婦を辞める日が来ても困らぬ知識を与えていた。その彼女をして優秀と言わしめた才能の持ち主ならば、この先表の世界に出ても生活の心配はないだろう。ノアがいなければもう何もルーチェの未来を阻むものなどない。好きなように謳歌すればいい……本来彼女が過ごしていたはずの陽の当たる青空の下を。

「ん……ノ、ア……?」

 しかし殺し屋が外へと続く扉に音もなく手をかけたその時、まだ眠っていたはずの娘が何かを感じ取り目を覚ます。そして隣に彼がいないと気づいた途端に迷わず戸口を振り向き、ルーチェの不安に揺れる眸を見た男は直感的に悟る――いつかノアがこうすることを、彼女は既に見抜いていたのだと。

「ノア、どこへ……?」
「どこへも行かん。すぐ戻る」
「嘘!」

 夜の間に乱れた上掛けを胸元にさっと手繰り寄せ、娘は床につけたしなやかな脚で男へと走り寄った。

「お願い、行かないで」
「ルーチェ」
「あなたの邪魔はしません。だから一緒にいさせてください!」

 懇願する緑の目には零れそうなほどの涙が浮かび、その中にはどれほど望んでいた眩しい想いが見えただろう。だがノアは隠しておきたかった弱さを自ら曝け出すことで、彼女に贈る決別の言葉に代えることしかできなかった。

「……逆だ。俺はお前の枷になりたくない。この腕ではもう殺し屋として生きていくのは難しいんでな」
「!」
「お前の生きる道は無数にある。わざわざ荷物を背負い込むこともないだろう。これからは好きな場所で、好きなように生きろ」

 それは精一杯の愛情のつもりだった。しかしルーチェは深い悲しみを秘めたまなざしでその唇を開く。

「あなたは……私の想いをわかってくれていたわけではないんですね。こうして傍にいるのは怪我の責任を感じているからだとでも?」

 反論しようと口を開きかけた彼を遮り娘は続ける。

「ではあなたにお聞きしますが、もし私がまだ見習いの間に同じ事件が起きたとして……生きる術を知らないままにイザベラさんのところを出ていたら、あなたは私を見捨てていましたか?」
「馬鹿なことを言うな、そんなわけが――」

 即答してすぐ意図に気づいた殺し屋は唇を噛んだが、ルーチェは切なげに微笑むと彼の頬に触れながら囁いた。

「ノア、私の生きる場所はどんな時でもあなたの隣です。あなたと一緒にいられるのならどんな苦労だって厭いません。あなたは2度も私を助けてくれた。今度は私があなたの役に立ちたいんです」

 餓えた獣の魂を満たす感情を呼び覚ました娘、その目にはあの日と同じ光が今もずっと輝いている。

「あなたの分も私が働きます。イザベラさんはそのための知識をくれました。だから連れて行ってほしいなんて言いません……勝手について行きます、あなたの行くところへ」

 彼女は自ら選んだのだ。無数の未来の中から、ノアと歩む人生へ続く道を。

「私があなたの傍にいたいのは……ノア、あなたを誰よりも愛しているからです」

 生来孤独な男にその言葉はどれほど響いただろう。どんな無様な姿を晒してもルーチェを失うよりはましだ。その身を顧みぬほど惚れ抜いた女のためなら泥を啜り、地を這ってでもまた生きるための新たな術を探してみせる。そうすることでしか胸を張り並び立つことができないのならば、どんな困難ももはや殺し屋を臆させる理由にはならない。彼女がノアの隣に在ることを望み続けてくれる限り、応えないという選択肢などもはやあるわけもないのだから。
 この先にどんな困難があろうと2人ならば乗り越えられる。それ故に手負いの獣は得難い女へ最後に問いかけた。

「俺は死んでも“パライソ”には行けんぞ。お前はそんな男と生きて本当に後悔しない覚悟はあるのか?」

 背負った罪は消えることなく、殺し屋の名は一生つきまとう。そんな彼に寄り添っても幸福になれる保証はどこにもない。だがルーチェはノアの胸に飛び込むと喜びの涙を流しつつ、男のブルーグレーの眸を真っ直ぐに見つめてこう告げた。

「例えもし明日私が死ぬとしても……」

 唇と唇が触れ合う寸前、ノアの心が求め続けた言葉がついにその耳に届く。

「今日という日をあなたと生きること以外、他には何も望みません」

 そして2つの影は1つに溶け合い、長い間離れることはなかった。
 ――その日、黒ずくめの男と可憐な娘は街を離れ旅立った。“真実の愛”を得た2人の行き先を知る者は誰もいない。