高くつく分余計なことは聞かない医者にかかることもあれど、妓楼を出た後ノアはどこにも立ち寄らずにただ歩き続ける。ルーチェが何度尋ねてみたところで彼の頭は横に振られ、2人は灯りもまばらな裏通りを選び男の部屋へと向かった。夜が更けてなお騒々しく、酒と煙草の臭いが漂うその辺りでは多少の血痕が飛んでいようと気にする者など誰もいない。最低限の血糊を拭っただけに等しいような状態でも、殺し屋の顔を知っている者は彼に近づいてもこなかった。
 血を浴びることが多い仕事柄ノアの部屋にはシャワーが要る。その狭い部屋にたどり着くなり男はキャビンへ女を引き込んだ。

「ん……!」

 冷たいタイルの壁に押し付けたルーチェの唇をふさぎながら、殺し屋は使い慣れない左手で器用にシャワーの栓を回す。靴と上着を落としただけの2人に冷水が降り注ぐが、それはやがて暖かく変わって乾いた血の跡を洗い流していく。その間にも口づけは何度も角度を変えては途切れず繰り返し、傷のことを考えればこのままではいけないと思いながらも、娘は深く貪られるがままドレスが引き下ろされるのを許した。

「……っあ!」

 耳の後ろから首筋をたどった唇に強く吸い付かれ、娘は一際高い声を上げなめらかな白い背を反らす。そしてそこからほのかに香った娼婦の匂いにノアは眉を寄せた。最後に身体を重ねた夜から早くも10日の時が過ぎ、真面目なルーチェが店に出なかったということは考え辛い。当然その間他の客の相手を務めていたのだろうし、それ自体は娼婦を愛した時から当然だと認めていたが、このたまらなく甘い声を他の誰かもこうして耳にしていた――そんな考えは彼の心をこれ以上ないほど激しくかき乱す。
 どれだけ他の男に抱かれようとこの想いが揺らぐはずもなし、ましてや彼女が穢されたなどと考えることもあり得ないが、やはりノアのように淡白な男にも人並みの独占欲はある。その肌に触れた男たちの記憶を全て塗り替えてしまいたい、そんな貪欲な思いに突き動かされて彼はルーチェの全てを求めた。まず右腕を何とかしなければならないことはわかっているが、それと引き換えにしてでも助けた愛しい女を目の前にして他にできることが何かあるだろうか。
 今や自分の名も思い出せぬシルヴィオは命こそ長らえるにせよ、どこかの施設で引き取られるか、あるいは浮浪者たちと共に路上で余生を過ごすのだろう。かつてルーチェの平穏な人生を奪った元凶である男は破滅し、もはや彼女の脅威はなくなった。全てが終わった安堵に諦めていた愛までもが加わり、殺し屋と娘はもはや客と娼婦として振る舞う必要もない。惹かれ合う2人が初めて本当の意味で愛し合えるこの夜、男女の孤独な魂は待ち受ける幸福に焦がれていた。

「ルーチェ……!」

 欲情が滲んだノアの囁きは低くルーチェの耳に響き、娘の身体の内側からは震えるほどの期待が込み上げる。相手の怪我を気遣いつつも濡れた服を脱ぐのを手伝うと、何も纏わぬ男と女は固く抱き合いキスを交わした。

「ノア、っ!」

 仰け反らせた細い首の下で揺れる胸を左手が包み、もう片方には右手が使えぬ殺し屋の熱い舌が這う。生きているからこそ感じられる果てしない快感が迸り、ルーチェの身体の芯は彼の愛撫に応えてとろけていった。湯気の篭ったキャビンの中で2人は瞬く間に反応し、唇を重ねながらその先を争うようにして求める……。

「……っ!」

 張り詰めた男のものに女のしなやかな指が絡みつき、もどかしいほど優しく摩られてノアはぐっと奥歯を噛んだ。傷の痛みさえも凌駕するその快楽に何とか耐えながら、自由に動く左手をルーチェの下肢の間へと差し入れる。娘の秘所はシャワーの下でなおはっきりとわかるほどに濡れ、骨ばった指の腹で蕾を探れば甘い喘ぎは尽きない。
 しばらくそうしてお互いの限界を探っていた2人だが、先に耐えられず音を上げたのは殺し屋の男の方だった。

「ルーチェ、脚を開いてくれ」
「脚……こう、ですか?」
「ああ、それでいい」

 利き手が使えないのは何とも不便なものだと思いながら、ノアはルーチェの腰を左腕で抱え上げ一息に挿入する。

「――っあ!」

 奥まで満たされ貫かれる圧迫感には声が上がるも、焦らされた身体は正直に欲望の証へとまとわりつく。繋がった場所から絶え間なく響く水音は激しさを増して、繰り返される口づけはその快感を煽り立てて止まない。
 ――だがあと少しのところで2人が同時に極まるというその時、ルーチェはノアの包帯が再び紅く染まっているのを見た。

「待……待って、ノア!」
「どうした」
「傷が……!」

 男は顔を顰めて女の視線を辿り言わんとすることを知るも、軽く頭を振るとそのまま律動を再開しようとする。

「放っておけ」
「そんな――」
「いいんだ」
「だめ! 血を……っ止め、ないと」

 それでも必死に制止しようとするルーチェの必死さに折れたのか、ノアは不本意極まりないという顔で彼女の中から身を引いた。

「心配するのは構わんが、お前を抱けない方がよほど死にそうだ」
「!」

 そう言ってキャビンの扉を開いた男は投げるようにタオルを渡し、左手に取った別の布で自分の髪を無造作に拭う。娘は彼の言葉に胸の内を狂おしい喜びで満たしながら、急いで水気を拭うとベッドに腰かけた殺し屋を追った。
 ノアは大抵の怪我なら自分自身で何とか間に合わせてしまうため、そのための薬や道具は常に鞄と部屋に備えられている。痛々しい傷口を消毒する手つきさえも慣れたもので、ルーチェの助けを必要とするような素振りさえありはしない。最後に包帯を巻く時でこそ彼女の手も役立ちはしたものの、一巻き毎に抱き寄せられれば遅々として進まないばかりだ。

「ノア、もう少し待っ――」
「嫌だ」

 羽織らせた男のシャツを落とせば温かい柔肌が晒される。血を失い冷えながらも怪我の熱に浮かされるノアにとって、愛する女の温もりほど心地良いものなど存在しない。早く彼女の中に自身を埋め全てを染め直してしまいたい、その欲望は高まるばかりで手を伸ばさずにいることは不可能だ。何とか包帯を留め終えたルーチェはもはやそれを咎めはしないが、すぐさま彼女を求める男に精一杯の配慮を込めて言った。

「せめてあなたが少しでも楽な方法でしましょう。後ろからなら多少は――」
「だめだ。俺はお前の顔が見たい」
「!」

 いつも向き合って抱かれた理由が明かされ娘は目を見開く。

「他の男はそうしたかもしれんが、俺はお前のこの目を見ていたい」

 どこか苦しげに続いた言葉にルーチェは涙を浮かべ言った。

「他の人なんて、いません」
「?」

 それに訝しげな目をしたノアは、すぐ後に続いた告白を聞いて驚きのあまり声を失う。

「あの後私は熱を出して……寝込んでいました。やっと今夜からまたお店に出られることになっていたんです。だから私は1人のお客様しか取ったことがありません。ノア、あなたしか……」

 男の心に住まう獣が喜びのあまり猛り狂い、今すぐに彼女と心ゆくまで深く結ばれたいと昂る。だが殺し屋はルーチェにされるがままベッドに仰向けに横たわると、愛しい女がゆっくりと彼を中に受け入れていくに任せた。
 かつて同じ寝台の上で娘は声を殺し泣いていた。だが今彼女の頬を伝う涙はもうあの時とは違っている。

「ノア……来てくれてありがとう。愛しています、あなただけ……」

 心が震える囁きの後に舞い降りる甘美な口づけ。2人はそれをこの夜の間数え切れないほど交わしては、ついに手に入れた幸福の味をいつまでも確かめ合っていた。