「しかし何度経験しても複雑なものだな……恋人が他の男に言い寄られているというのは」

 見回りの冒頭に出くわした光景を思い出したのか、ダリウスはため息混じりにそう呟く。責任者たる彼と花形スターのメロディが交際を始めてもう2年以上の時が経つが、サーカスという濃密な人間関係の中でただでさえ若年の人気者である彼女が不利益を万が一にも被らないよう、団長の意思で2人の関係は周囲に秘密にされていた。ほとんど毎日顔を合わせるとは言っても人前で仲睦まじい姿を見せることもできず、事務作業もこなさなければならないダリウスと緻密な訓練を重ねる必要のあるメロディではすれ違いも多いため、こうして恋人らしいひと時を過ごせる機会は実のところあまり多くない。
 しかし彼女は許される限り団長の傍にいることを望み、また彼もメロディとの時間を持ちたいと願ってくれているからこそ、興行最終日の舞台がはねた後にダリウスの部屋で落ち合うことはいつしか2人の習慣となった。いつも公演後の見回りを欠かさない団長の部屋の鍵は普通に手渡されることもあるのだが、今夜のようにかつて魔術師の2つ名を欲しいままにしていた奇術師時代の腕前を披露してくれることもあり、当時の彼を知る身にとってはそれが何とも懐かしく、恋しい想いは結ばれてなおますます募っていくばかりなのだ。

「ダリウス、私は他の人に何を言われたって――」
「もちろん君の心を疑っているわけじゃない。だが君が魅力的なことは私が1番よく知っているし、断られた彼らの目も実に確かだ。いっそ本当のことを全員に打ち明けてしまいたくなる時もあるが、やはりお互いの立場を考えるとなかなかそうもいかないのでね」

 そう言ってベッドに腰を下ろしたダリウスは後ろから細い腰に腕を回してメロディをその膝に乗せると、暖かみのあるシナモン色の髪が柔らかくかかる肩口にそっと唇を押し当てる。1つ、2つ……首筋へ、耳元へ。種火を灯された導線の如く、触れられた場所から彼女の全身には火花が散るようなもどかしさが広がっていく。染まった頬にかかった髪をかき上げるのはあらゆる手品を魔法に変える長い指で、多忙な彼を独占できる時間は短いと思えば逸るのは何も心だけではない。

「……っ、ダリウス……」

 微かに身体を強張らせたメロディは耐えきれずに後ろを振り向き、ほのかに潤んで艶めく眸で訴える。自ら舞台の上に立つことを辞めても団長という肩書きが激務を伴うことには変わりなく、ダリウスがゆっくりと休める時もまた多くはない。ましてや10日間続いた公演の直後だけに彼女とて疲れていないはずはないのだが、ようやく2人きりで逢えた夜にこの先を望まず踵を返すことなど一体誰ができるだろう?
 次にいつこうして抱き合えるのかがわからないからこそ、触れ合えない日々の間も何食わぬ顔をしていられるように愛してほしい。尽きない想いに導かれるまま求め合う歓び、それを2人はもう知っているのだから。

「ごめんなさい、あなたも疲れているのに。でも……でも、私」
「いや、構わないさ」

 “本来は私がもっと君を気遣わなければいけないんだが”と前置きをした上で、ダリウスは恭しく抱き上げたメロディを優しく寝台の上に横たえた。そのまま覆い被さるように口づけを交わし、あと少しでも続ければもはや言葉を発する余裕もなくなってしまうという時、ようやく引き寄せ合う磁石を無理に引き離そうとでもしたかのような動きで彼はぎこちなくその身を起こす。そして限界まで抑え込まれた熱情が切なく燻る双眸を細めると、それさえ口にするのもやっとというほど掠れた声で彼女に告げた。

「メロディ、私も君が欲しい」

 ……お互いの服を脱がせ合う間もそれぞれの唇は幾度となく相手の肌に触れ、その度に2人の胸にはたくさんの歓びが弾けていく。ダリウスはどこか異国の香辛料を思わせるような、またメロディはもいだばかりの林檎にも似た甘い香りだけを身に纏い、素肌のままで固く抱き合えばそこから先に言葉はいらない。

“ん……!”

 下からすくい上げるように持ち上げられた胸の膨らみをかぷりと甘く噛まれ、痛いほどに張り詰めた彼女の頂にはダリウスの熱く濡れた舌が触れる。彼の背に思わず爪を立てそうになったメロディは咄嗟に手を開いたが、そんな一挙一動も相手には全てお見通しだと思うといつまで経っても不慣れな自分が恥ずかしい。しかしダリウスは恋人との交わりを性急に済ませるつもりなどまるでなく、いつも十分すぎるほどに彼女の身体を慣らしてくれる。それがむしろお預けを食わされているようで辛い時もあるのだが、今夜は違った。

「……っ!」

 待ち侘びた場所へともたらされる質量に押し出される恍惚の吐息。久しぶりとは言え彼を受け入れる場所には何の抵抗もなく、むしろ鮮烈なまでの快感が迸る。すっかり準備が整っていたことを知るのにそれ以上の証拠など必要ない。どちらからともなく控えめな律動を刻み始めながら、これから2人はめくるめく愛のひと時を過ごすのだ。
 無垢な乙女はダリウスの手によって花開き、睦み合う恋人たちの燃えるような甘い歓びを知った。そして彼もまたメロディによって呼び覚まされた情熱の全てを傾け、限りない想いを分かち合うことに果てしない幸福を見出してくれる。

「表立って口にすることはまだできなくとも……いつも君を想っている。メロディ、それを忘れないでくれ」

 動きを止めることのないまま告げられる愛の言葉。この前にそれを聞くことができたのはもう3週間近くも前、団員各自が団長の事務室を訪れ月に1度の給金を受け取る時のことだった。外の通路で何人もの同僚たちが待っている中、入室したメロディが扉を閉めてから再びそれを開けて出て行くまでの僅かな時間、それこそほんの1分足らずの間に2人は慌ただしい抱擁とただ触れるだけの短いキスを交わしたものだ。
 その顔を見ない日はないほど近くにいられるからこそ触れ合うことは難しい。想いが通じる前には喜びでしかなかったこの境遇だが、同じ場所にはざっと100を超える人数が日々寝食を共にしており、いざ逢い引きを試みようとしたところで全員の目をかい潜ることはそう簡単とも言えなかった。しかしそんな苦しい日々が続こうとも2人が果たすべき責任を疎かにすることはない。厳しくも頼り甲斐のある団長と一座の看板を背負うブランコ乗り――お互いがこのサーカスに欠かすべからざる存在として担う役割とその重さを知っていればこそ、いつか一緒に家庭を築くその日までもうしばらく辛抱しなければならないことは最初からわかっていたのだから。
 それでも許された短い時間を共に過ごす道を選び、秘密の恋人たちは精一杯に愛し合う。他の誰の前とも違うまなざしで見つめ合い、一緒にいられることが嬉しくてたまらないという感情を今この時だけは隠そうともせず。

「愛しているよ、私のメロディ」

 囁かれる想いに応えたくとも声が出ない。あまりにも大きな快感はメロディからその囀りを奪い、彼を愛しているという以外のあらゆる物事を考える力を失わせてしまうのだ。ダリウスが力強く彼女を貫く度に針が振り切れるような快楽が迸り、メロディは愛しさがもたらす歓びの渦に身を委ねる……どこまでも深く、終わりのない幸福感に包まれながら。