「おーい、全員に回ったか? まだの奴は早く取りに来い!」
「なくなっちまってから文句言うなよ!」

 公演を終えた翌日から一座は全ての資材をまとめ、キャラバンを組み次の目的地まで旅をする。その日の昼食は大きな鍋で豪快に調理された牛肉と野菜の煮込みで、よく蒸されて粉を吹くジャガイモにスープがよく絡む人気の一品だった。街道沿いの草原に敷き布を広げた団員たちは、陽射しの下でもなお湯気を上げる出来立ての料理に舌鼓を打ち、人数よりも少し多めに用意されていたそれはあっという間に胃袋の中へと消えていく。
 それから出発までの短い時間、ある者は横になって身体を休めながら午後の旅路に備え、またある者は首輪にしっかり鎖をつけた猛獣たちを少しの間檻から出してやったりとそれぞれ思い思いに過ごすのが常だが、その中に訓練生たる子供たちの姿は見えない。彼らは近くの木陰に半円を描くようにして座り、その前に立つ団長の授業を受けなければならないのだ。だがそれは何もサーカスに関する勉強というわけではなく、普通の町の学校と同じ歴とした教育の一環としてのそれであり、今では子供たちだけではなく希望する幾人かの大人たちさえその中に混ざるようになっていた。

「さて、全員揃ったかな? では昨日の続きからだ。綴り字と発音の違う単語のまとめをしよう」

 驚くような技を身につけようとすればするほど怪我や危険は付き物だが、芸を諦めたところで最低限の学がなければ新たな仕事を見つけることも難しい。そこで奇術師でなければ教師になっていたというダリウスが今も有するその資格を活かし、いつか彼らが一座を離れた後も生活に困らないよう勉強を教えているのは、他のサーカス団とエフェメール一座の大きな違いと言っていいだろう。偶然目にした訓練生募集の張り紙に憧れの人物の名を見た時から約1年、入団を頑なに反対していた両親をメロディは毎日根気よく説得し続けたものだが、ついに2人がその想いに折れ娘が家を出ることを許したのもこの制度の存在が大きかった。おかげで彼女も正式に舞台に上がる頃には中等教育の修了を示す証書を手に入れており、教える相手が相手故にその成績は優秀そのもので、両親がほっと胸を撫で下ろしただろうことは想像に難くない。

「――ということだ。ではマーカス、この空欄に入る文字は?」
「え!? えーと……メ、メロディに聞いてから!」
「こら、最初から彼女を頼るんじゃない」

 当然ながら遊びたい盛りの子供たちにとって、短いながらもほぼ毎日義務として課せられるこの時間は決して喜ばしいものではないのだが、及第点を取らない限りは退席の許可が下りない以上、一刻も早く自由な時間を満喫したければ大人しく団長の話を聞くのが最善にして最短の道だ。しかし一座の規模が大きくなるに従って増えていく彼らをダリウス1人で見るには徐々に手が回らなくなってきており、そこで訓練生としての先輩かつ立派に学業を修めたメロディが都合のつく限り補佐として彼の手助けに入っている。彼女が最初にそれを頼まれたのはまだ恋人と呼ばれる関係になるよりも前のことだったが、その時も今もダリウスの傍にいられるのが嬉しいことに変わりはない。決して名前で呼びかけることはできないにせよ、彼を近くで見ていられるというだけでもメロディにとっては役得極まりないのだから。

「メロディ、できたー」
「本当? ……残念、1つ間違いがあるわよ」
「嘘! どれ?」
「ここの6番。もう1度やってみて、終わったらまた団長か私に見せてね」
「ちぇ、全部合ってると思ったのにな」

 訓練生たちは流浪の生活でありながら、その学力は街の子供たちにも引けを取らない。始めは多少ついていくのが難しいと思われた数名も、やがて皆と同じところまで追いついていくのは彼らの努力ももちろんのこと、明快でわかりやすいダリウスの教え方に起因するものもあるだろう。
 彼が教鞭を取る立場を目指したのは元来の子供好きな性格故だったのだが、最終的には今のようにマジシャンを生業として選んだ。それは時として厳しく当たらねばならず厭われることも珍しくはない教師より、常に彼らの笑顔を見ていられる職に就きたいと思ったからだ。その手品の方も学生時代にしていた孤児院の慰問のために覚えたもので、ダリウスはつまるところ子供たちを喜ばせるために自分の人生を決めたと言ってもいい。
 ……どことなく落ち着かない様子で照れ隠しのように目を逸らしながらも彼がそう答えてくれた時、教師にならなかった理由を何気なく恋人に尋ねたメロディは、あまりにも胸がときめきすぎてしばらく呼吸もままならなかったことは言うまでもない。

「よし、今日はここまでにしよう。遊ぶのは構わないが、遠くには行かないように」
「やったー!」

 ダリウスがそう言った途端に12歳にも満たない訓練生たちは一斉に歓声を上げて駆け出し、汗ばむ日向よりも僅かに涼しい大樹の下にはメロディと彼だけが残る。さらさらと木の葉を揺らす風はもう夏の匂いを運んできていて、グレーの眸を柔らかく細めたダリウスはビスケットのような色の髪をかき上げながら笑った。

「やれやれ……元気がいいのはありがたいが、こうもすぐにいなくなられると少し寂しいな」

 その横顔に見惚れる乙女が10歳で彼と再会してから先、一座の団長に疲れの色が見えない時はほとんどない。だが自らのサーカス団を持つという夢を実らせたダリウスにとっては、そんな忙しさすらも大きな喜びだろうことは確かで、尽きない仕事を器用にこなしつつも団員たちへの気配りも忘れない彼にメロディはいつも驚かされる。努力を重ね、夢を掴み、それでいて現状に満足することなく常により良いものへしていこうというダリウス。そんな彼を1番近くで見ていたい、そう思うようになるまで長い時間はかからなかった。多忙なダリウスを癒せるような女性になりたい、彼の重荷を分かち合える存在になりたい……その願いが淡い憧れを超えた時、かつての少女は本当の恋に落ちたのだ。

「部屋の設営も終わったぞ。荷物を置いたら練習再開だ!」

 それから更に5日ほどの旅を経た後で、エフェメール一座は運河の流れる大きな街の外に自前のテントを張り、積んできた資材で当面の事務所や簡易な宿舎を拵えた。近頃ではサーカス団の名も知られてきており、道中で人々に公演の予定を尋ねられることも増えている。そういった観客の視線を一身に浴びながら天幕の中を熱気と興奮でいっぱいに満たす、それはどんな演技者にとっても最高のひと時であることは間違いない。
 そのためには何よりも地道な訓練が欠かせず、移動の間は実力を発揮できなかった空中曲芸師たちはここぞとばかりに準備を開始する。そしてメロディもその例に漏れず、手早く荷を解いて訓練着に着替えると急ぎ練習の場へと向かっていたのだが……。

「――すみません、団長はどちらにいらっしゃいますか?」

 テントの入り口で突然かけられた声に足を止めると、そこにはメロディより少し歳上だろう見知らぬ青年が立っていた。足元には彼のものと思われる数個の荷物が積まれていたが、帽子の箱やステッキ、またその1番上にある白い鳩の鳥籠を見ればいかなる肩書きの持ち主なのかは容易に想像がつく。

「失礼、僕は新しくお世話になる手品師です。どうぞアレックスと呼んでください」

 そう言って笑顔を見せた端正な面立ちの奇術師こそ、あの晩ダリウスの口からその名を聞いたアレッサンドロ・ジラルディーノだった。