「エフェメールさん、お久しぶりです」
「――ああ、君か!」

 まだそこかしこに書類の束が積み上げられたままの団長室、その戸口に若いマジシャンの姿を目にしたダリウスは笑顔を見せて立ち上がると彼と固く握手を交わす。

「片付いていなくてすまない、もう来てくれるとは思わなかったんだ」
「せっかくですから早く皆さんと合流したくて。ご迷惑でしたか?」
「そんなことはないさ。アレックス、君を一座に迎えることができて嬉しいよ」
「僕の方こそ光栄です。この世界であなたの名を知らない同業者なんていませんからね」

 “魔術師”と謳われたダリウスが表舞台に出なくなってから10年と少し、それでも数々の逸話に彩られた彼の存在は今も若い奇術師たちの羨望の的だ。そんな先人が率いる一座のお抱えとなることで名前に箔をつけようと考える手品師たちは多く、狭き門を勝ち抜いたところで目の肥えた団員たちを前に長く籍を置くことは難しいと知れた後でも挑戦者たちは尽きなかったが、ここしばらく奇術枠の雇用が途絶えていたのは単に団長の目に適う能力を持った者が見つからなかったというだけに過ぎない。
 そんな中でアレックスは久方ぶりに見出した確かな腕の成長株であり、その移籍はダリウス直々の声かけによって実現している。地方の小サーカスからの引き抜きには金銭的な負担を強いられたものの、稀代のマジシャンを獲得したことは一時的な損失以上にこれからの一座の充実を約束してくれるものだった。

「では早速団員たちを紹介しよう。ちょうど今は訓練の時間だ、誰が何を担当しているのかすぐにわかる」
「ありがとうございます」

 一通りの契約手続きを終えた後で団長はそう言い、亜麻色の髪をした若者を伴って部屋を出る。
 各演目に潤沢な人手を抱えているとは言えないエフェメール一座も、ひとたび裏方に目をやれば多くの人々が働いており、顔見せ程度の挨拶であっても全員のところを回ろうとすればそれなりの時間が必要だ。サーカスの構成員は多岐に渡り、曲芸師と一口に言っても空中で演技をする者、地上で軽業を繰り出す者、動物と組んで調教の妙を魅せる者とそれぞれの受け持ちは分野別に異なる。時にアクロバティックなダンスを披露する踊り手たち、またそれらの演目に華を添える楽団員も欠かせない。
 そして彼ら演者を支える事務方――文字通りの事務作業員のみならず団員の身の回りや動物の世話をする人員、そこに訓練生の子供たちをも含めればまるで小さな村にも等しいほどの人数が共同生活を送っており、切磋琢磨し芸を磨いては観客たちを魅了するための準備を日々怠らずにいる。それがサーカスという場所の特殊なところであり、長く腰を据えようと思えば家であり職場であるその共同体に問題なく溶け込めるか否かということも当然重要な要素となってくるものだ。

「皆さんとても向上心がおありですね。僕もここで一回り大きくなれそうです」

 そんな団員たちを前にアレックスは柔和な微笑みを絶やさず、次々に人を紹介したところでそのほとんどを瞬時に覚えてしまう様は思わず感心させられたものだが、挨拶回りもだんだんと終わりに近づいてくるにつれて団長はその有能さに妙な違和感を覚え始める。

“仕事でないからと言って無愛想でいられるよりはよほどいいだろう。私は何を気にしているんだ……”

 大人にも子供にも等しく向けられる演技者からの温かい笑顔。それこそダリウスが大切にしているものに他ならないのだが、アレックスのそれは果たして本心からのそれなのかどうにも判断がつかない。数ヶ月前偶然出先でその技を見た時も今も、隣を歩いている若い手品師の受け応えに何ら不満があったわけではないというのに、急にその微笑みが非常に精巧にできた仮面なのではないかという考えがふと心に思い浮かんでしまったのだ。

“馬鹿馬鹿しい。大きい街での公演だからと言って少し神経質になりすぎているのかもしれないな”

 だがアレックスと挨拶を交わした団員たちは誰もが彼に好印象を抱いたようで、ダリウスは自分の突飛な思いつきを立場柄考えすぎただけだと結論づけた。愛想が良すぎることが気になるなど、それこそよく知りもしないうちから難癖をつけていると思われかねない。この半日だけでもその性格に非の打ち所は見つからず、いつでも笑顔でいてくれるのなら好かれることこそあれ、嫌われることなどまずありはしないのだから問題になどならないだろう。他所への行き交いも多いこの街では噂の拡まる速度も速く、公演の成否如何によっては一座の今後がかかってくる。だからこそ身銭を切ってまで目玉となる奇術師を呼び込んだというのに、遜るつもりもないとは言え、そんなくだらない言いがかりで機嫌を損ねられたくもない。
 大勢の団員を抱えているからこそダリウスがここでの興行に並々ならぬ意欲を燃やしているのは事実で、あともう一押し盛り上げるためにはアレックスの力がどうしても必要だ。ここで成功できれば一座はさらに多くの選択肢を手に入れることができる。もっと遠くまで公演の足を伸ばし、団員たちの生み出す感動をより多くの観客に届けることも。

「では最後にエアリアルの団員たちを紹介する」

 自身の一座を結成してなおダリウスの夢は終わらない。気を取り直した彼はまだ稽古を続けている空中曲芸師たちの元をアレックスと共に訪れ、もしものために網を張ってなお仰ぎ見るほどの高さから影を落としている演者たちを1人ずつ指し示す。

「右端のフープを使っているのがオードリー、その隣がガラテア、奥のブランコにいるのが花形のメロディ・スターリングだ。後は怪我で療養中の団員が3人、訓練生が10人というところかな」

 現在この一座において吊り下げられた布や輪、ブランコを自在に操るエアリアルの曲芸師たちは皆女性であり、文字通り空を舞うようなその技にはダイナミックかつ繊細な技術が要求される。中でもメロディは抜群の安定感を備えた上で優雅な舞台を演出する能力にも長けているため、彼女の存在が他のサーカス団との間に一線を画す要因の1つとなっているのは間違いない。初代の訓練生上がりで生え抜きの団員であることも加味すれば正に一座の看板と呼ばれるに相応しく、長い修練を経て花開いたメロディの演技は団長たるダリウスが常に胸を張って誇れる演目だった。

「通常はどの公演もメロディのブランコを最後に据えていて、それは今回も変わらない。そこでアレックス、君にはその1つ前を任せたいと思っているんだが」
「……彼女の前を?」
「ああ。一座では新人の君をこの位置に抜擢するのはなかなか勇気がいることだが、私はその腕を見込んでいるのでね。内心不服に思う者がいたとしても脱帽せざるを得ないような出し物を頼む」

 求めていたのはフィナーレを飾るメロディに見劣りせず、客席を沸かせることのできる才能だ。そこへステージマジックを得意とするアレックスはうってつけの人材であり、また彼にとってもその名を上げる絶好のチャンスとなる。

「そこまで仰られては引き受けないわけにいきませんね。ご期待に沿えるようがんばります」
「そう言ってくれるとありがたいよ。では楽団員たちと君の演目で使う曲を相談しておこう」
「はい」

 そんな会話を交わしながら2人はその場を後にする。だがダリウスは気づいていた。彼の後ろでアレックスが1度メロディを振り返り、意味深なまなざしをじっと投げかけていたことを。