しかしそれからの数日間で、アレックスはダリウスの妙な感覚など杞憂でしかなかったと思わせるほど順調に一座に溶け込んでいった。襟足が長く少し癖のある亜麻色の髪に干し棗のような甘い色の眸を持った青年は、やって来たその日からすぐ女性陣に大いなる人気を博したものだが、気さくな振る舞いはあっという間に男同士の間における自身の居場所をも確立し、公演の初日を明日に控えた今ではもう何年もこのサーカス団にいたかのようにさえ見える。しばらく世話役でもつけるべきかと考えていたものの、もはやその必要もないだろう。アレックスは完璧だ――唯一、メロディに対して単なる同僚以上の興味がありそうな点さえ除けば。

“違和感の正体はこれか……?”

 食堂で昼食を口に運ぶダリウスの視線の先、数列離れたところには彼の密かな恋人が新人手品師と並んで座っている。若い2人、美男美女。正直なところ年嵩な上に十人並な容姿の自分が隣にいるよりも遥かに絵にはなるが、だからこそ喜んで見ていたいものではない。メロディがダリウス以外の男に一切心揺れないからといって、全く妬かずにいられるかと言うと物事はそう単純でもなく、この歳になってもまだ小さな棘に胸を刺されているような気分にはどうしてもさせられてしまうものだ。
 団員を紹介して回ったあの日、アレックスは練習を続ける彼女を食い入るように見つめていた。メロディの演技は見る者の目を飽かず楽しませてくれる魅力にあふれているし、このサーカスで最も秀でた技を持っていると認められたからこそ最後の演目を任されていることをふまえれば、同じ舞台に立つ者として彼女が気にかかるというのはわからないでもない。少なくともその反応が他の誰に対してとも違っていたのは明らかで、アレックスにとってメロディは何らかの感銘を受ける相手ではあったのだろう。
 ……しかしそれが一目で恋に落ちるといった類のものであったとすれば、頭が痛いことこの上ない。

「あれ? アレックス、またメロディと一緒にいる」
「昨日もじゃなかったっけ。仲良いなあ」
「ははん……また1人惚れる奴が出たか?」
「それならそれでお似合いだけど、メロディは不思議なくらい難攻不落だからね」
「でもアレックスなら望みあるかもよ。お手並み拝見といきましょう」

 通りすがりの団員たちが揶揄混じりに交わす会話は妙にはっきりと耳に届き、ダリウスはますます憂鬱になった。同じような噂話を聞くのもこれが初めてではなく、傍目にもわかるほど2人が距離を縮めているのはどうやら事実らしい。相手が誰であれ恋人に気のある素振りなどしないでほしいのが本音だが、アレックスの態度が自分の穿った思い込みの域を出ない以上、意味もなくメロディの友人関係を狭めるような真似など無論できはしないし、よしんば新人に皆の言う通りの下心があったとしても、元より彼女との関係を明かせない身であれば八方塞がりにも程がある。
 現在ダリウスは舞い込んでくる大量の仕事に忙殺され、新人手品師を案内した日以来メロディとは挨拶どころか顔を合わせる時間もない。こうして食堂に訪れる時でさえ普通の団員とは時間がずれてしまうことも多く、今日はやっとその姿を見られるタイミングでこの場に来られたというのに、何が悲しくて他の男と恋人の風聞など聞かなくてはならないのだろう。せめて愛するメロディの元気な様子に癒されたいと願っても、すぐ隣にいるアレックスの屈託ない笑顔は否応なく視界に入り、年甲斐もなく複雑な心境に陥ってしまう自分への自己嫌悪でせっかくの食事も砂を噛んでいるように味気ない。
 こんなことはメロディと付き合うようになってから珍しいというわけでもないのだが、疲れている時にはやはり心に重く響いてしまう。団長としては一座の将来がかかっている公演の前だけに気が急いている自覚はあるし、些細なことにも敏感になってしまっているだけだとしても、自分が引き抜いてきた人物にここまで心を乱されるとは全く思いもしなかった。たった数日、されど数日。個人的な事情を除けば文句の付けようがない相手なだけに、アレックスを手放しで歓迎できない者などここにはダリウスしかいないだろう。それがわかっているから何もできない。できるはずがない……どんなに2人の姿が頭をよぎろうとも、耐えて気にしない以外の選択肢など最初から存在しないのだから。

「団長」

 だが皿に残った最後の一口をさらえようという時、ふとダリウスのついている卓が陰る。それと同時にかけられた声に目を上げると、そこには自身の食器を下げ終えた一座のスターが立っていた。

「お疲れのようですが……どうか無理はしないでください。私も明日はがんばりますから」

 心配そうに、それでいて励ますように告げられたその言葉。1人の団員として口にできる最大限の優しさの中には彼女の想いが込められていて、団長の口元は思いがけず綻ぶ。

「ありがとう。私も君の演技を楽しみにしているよ、メロディ」

 自分独りで生み出せる喜びには限りがあるが、仲間たちと力を合わせればそれを何倍、何十倍にすることも決して不可能ではない。ダリウスが一介の手品師として時を重ねることを止め、自身の一座を旗揚げした原点はそこにある。多彩な技を持った団員たちと魔法のような楽しい時間を創り出す、そのために彼は身を粉にしてこの10年余りを奔走してきた。その夢に一層の輝きを与えてくれるのはメロディだ。裏方も含め一座に籍を置く全ての団員たちが、最もその魅力を発揮できるよう舞台を整えるのがダリウスの仕事だが、やはり割れんばかりの拍手と歓声に包まれた恋人の笑顔を見ている時ほど、自分の努力が報われていると感じる瞬間もない。今では公私共にかけがえのないパートナーとなった彼女のためにも、満を持して迎えたこの場での公演には全力を傾けて臨まなくては。

「――団長、明日の入場券の売れ行きはいかがです?」

 ダリウスがその決意を新たにした時、メロディの後ろから顔を出したアレックスがにこやかにそう尋ねる。恋人の労わりに慰められ、落ち着きを取り戻した団長は穏やかに答えた。

「ありがたいことに大盛況で、今のところほとんど完売だ。残りも開演前には売れてしまうと思う」
「そうですか。よかった、それだけ注目されているということですね。新聞屋も来るように聞いていますし、僕もとっておきのマジックを披露させていただくとしましょう」

 “失敗でもしたら何を書かれるかわかりませんし”――アレックスは大げさに肩を竦めてそう言ったが、それは自分に絶対の自信があるからこそ口に出せる台詞だろう。一気に名前を売れるチャンスということは、同時に地に落としてしまう可能性もあるということだ。だが若い手品師の経歴を見る限り、彼は自分の能力をアピールできる機会を逃したことはない。団長としてその強気とも思える姿勢は頼もしい限りではあるが、他の団員たちは必ずしもそこまで不安を克服できているだろうか? 重圧に押し潰され本来の演技ができなくなってしまう者も少なくはないのだから、周りに人がいる中で闇雲に恐れをかき立てるようなことは言いたくない。

「ああ……そうだな、もちろん君にも期待している。私の目は確かだったと証明してくれ」

 ダリウスはそう返すだけに留まったが、その真意がアレックスに伝わっているとはなぜか思えなかった。