公演の初日には独特の空気がある。どこかそわそわと落ち着かないような、それでいてこの先に待っている素晴らしい時間に想いを馳せるような、その不思議な感覚は舞台の表裏を問わずに一座を包み込み、それは団長たるダリウスも決して例外ではない。それぞれの演者たちが何を披露するのか詳しく知っている立場だというのに、自身のサーカスの幕開けを1番楽しみにしているのはもしかしたら団長本人かもしれない……団員たちが笑い話として嘯くそんな言葉もあながち間違いではないだろう。
 天幕の外側には楽しい時間の友として最適な食べ物や飲み物の屋台がいくつも並んでおり、そのいずれもが活気あるやり取りで盛り上がりを見せている。親に手を引かれて列を成すたくさんの子供たちは、すぐ傍の帳の中へと足を踏み入れられる時を今か今かと待ちわびていて、芳ばしい香りを漂わせる肉の串や色とりどりの綿飴でも、彼らの興味を完全に引きつけておくことはもはやできない。茜色に染まった空には徐々に星が輝き始め、夢の世界へと続く入り口が開かれる瞬間はもうすぐそこまで近づいてきていた。

「――さあ、いよいよ開幕だ」

 その頃、多くの人々で賑わう外から象牙色の厚布を1枚隔てた内側で。様々な衣装に身を包んだ団員たちは準備の整った舞台の上に集い、同じく正装に袖を通した団長の言葉に耳を傾ける。

「君たちも知っての通りこの街での評判は我々の今後にとって重要ではあるが、だからと言って不必要に気負わないでほしい。私は今の一座なら何の問題もなく成功できると確信している。もうすぐ君たちの演技を紹介できると思うと私も心が弾むよ」

 毎回観客を入れる前のこの時間にダリウスが彼らを鼓舞するのは恒例のことだが、2つ名で呼ばれた日々が過ぎても、発する言葉に魔法を込める能力までもが失われてしまったわけではない。調子が上がりきらず浮かない顔で初日を迎えた団員も、日頃は妥協と無縁の厳しい団長に温かく勇気づけられた後では、再び自信を取り戻して舞台に上がることができるのだ。心のどこかに焦りを抱えている者ほどその効果は大きく、最も緊張を強いられる本番当日にこれまでの成果を上回る力を引き出されることも珍しくはない。

「ジョゼ、アナスタシア、初舞台おめでとう。訓練生の時には味わえなかった盛大な拍手を経験して、ぜひ後輩たちを羨ましがらせてくれ。そしてアレックス」

 デビューを飾る者への餞けを口にした後、ダリウスは自ら招いた新人に声をかける。若い手品師に視線を向ければ予想通りその隣にはメロディの姿が見えたが、団長は胸の奥にずきりと響いた鈍い痛みを堪えると努めて明るく言った。

「君もこの一座では今日が初回の公演だ。こんな言葉は不要だろうが、ぜひここでも君の持ち味を存分に発揮してほしい」

 そう激励されたアレックスは爽やかな笑顔を返事に代え、前日の発言通り自身の成功を微塵も疑っていないことを言葉なく伺わせる。だが一歩間違えれば自信過剰に思われかねないそんな振る舞いも、他の団員たちにいい意味で奮起を促すきっかけとなってくれるのならそう悪くもないだろう。
 ……彼の自信に満ちた微笑みを目にする度、ダリウスが妙な胸騒ぎを感じずにはいられなかったとしても。

「では、健闘を祈る!」

 張りのある声で告げられたその言葉を合図に、団員たちは表情を引き締めて一斉に返事をすると各自の持ち場へと散っていく。それぞれの背を見送る団長の視界の隅ではアレックスが去り際に何かをメロディへと囁いたのが見えたが、この場で彼女を呼び止めることのできない自分の立場に、その唇からは複雑な心境を示すため息が密かに零れた。
 磨き上げられた観客席、どの角度からも舞台がよく見えるように設置された篝火。見渡す通路には塵1つ見当たらず、後は観客の訪れを待つだけだ。何もかもが完璧で、欠けているものなど1つもない。それなのになぜ心は晴れないままなのだろう……? ダリウスは何度も自問するが答えは未だ見つからず、まるで立ち込める霧の中を独りでさまよっているかのような不安がずっとつきまとう。
 大きな山場を迎える精神の高揚とはまた違う、じっとりと汗ばむような不快な緊張。しかし多くの団員たちを率いる責任者ならば弱気な顔など見せられない。団長とは常に先陣を切って好機を掴み、矢面に立っては彼らを護る、揺るぎない信念と情熱を兼ね備えた存在でなければならないのだ。それを今一度自身に知らしめるべく、ダリウスはテールコートの片袖を僅かに上げる。そして煌めく白蝶貝のカフリンクスに触れると、それを贈ってくれた相手のことを思い浮かべながらなめらかな表面をそっと撫でた。

“メロディ……”

 1年前の誕生日に趣味の良い造りの小箱を受け取ったその時から、ダリウスの袖口を今に至るまで飾るのはこのカフスボタンだけだ。公演中は舞台を隔てて離れていても、心はいつも傍にあるという恋人の想いが込められたそれはどんな時も彼の支えとなってくれる――これまでもそうであったように、今日もまた。

“ここで立ち止まるわけにはいかない。この公演も必ず成功させてみせる”

 ダリウスの夢が自分の夢だと言ってくれた淡く優しいラベンダーブルーの眸を思い返し、英気に満たされた団長は入り口に向けて白い手袋を嵌めた片手を挙げた。それに頷いた係の団員がついに分厚い幕を左右に開き、豪奢な飾り紐で柱に留めると、開場の時を待ち焦がれていた人々は目を輝かせながら次々にその中へと足を運んでいく。
 あっという間に埋まっていく席、嫌が応にも高まる期待。これから始まる魅惑のひと時を前に、誰もが楽しげに会話を交わす。そしてさらなる油が継ぎ足された炎が眩い光を放った時、舞台の中央に司会を務める団員が厳かに現れた。

「ご来場の皆さま、大変長らくお待たせいたしました。只今より今夜の公演を始めさせていただきます!」

 高らかに告げられたその言葉に天幕の中は大いに湧き、舞台袖からそれを眺めるダリウスの目もつい細くなる。旗揚げ当初はこの半分も席が埋まらなかったからこそ、努力の結果が実った喜びを噛みしめることができるのは団長という肩書きの持ち主ならではだろう。

「初めに当一座の団長、ダリウス・エフェメールからのご挨拶をお聞きください!」

 司会にそう促され、ダリウスは公演の期間中こうして日に1度だけ舞台に上がる。ほのかに光沢のある濃紺の燕尾服、純白のタイ。その眸と同じ涼しげなグレーのスラックスと銀糸の混じった白いウエストコートは洗練された大人の男の魅力を引き立て、華やかな装いを引き締めるのは漆黒の靴とトップハットだ。

「お集まりの皆さま、本日はようこそおいでくださいました。今夜はこの街の初演、我々も全力で取り組ませていただきます。どうぞ我がサーカス団の誇る数々の演技を最後までお楽しみください!」

 よく通る声で述べた挨拶が終わると同時に大きな拍手が鳴り響き、その瞬間だけはダリウスの胸にも昔の思い出が蘇る。しかし彼は喝采を受ける場所を後進に譲り、新たな才能を送り出す側に立つことを選んだ。以来早くも10年余りの月日が流れたが、ダリウスがその選択を後悔したことはない。例え過去に戻れたとしても、苦難の時を乗り越えて仲間と共に成功を収め、愛する恋人をも得られた今より恵まれた人生など決してありはしないのだから。