息の合った3つ子のかけ声も勇ましいアクロバット、無言のピエロが繰り広げる喜怒哀楽に満ちたパントマイム。鞭の音と共に獅子や虎がしなやかな跳躍を見せれば、その後には手に汗握る綱渡りや、積み上げられた椅子の上での息を呑む逆立ちが待っている。動と静を際立たせるよう組み立てられたプログラムは演目が変わる毎に観客を一喜一憂させ、幕間の休憩を挟んでもその盛り上がりが失われることはない。

“いい手応えだ。今夜は時間が過ぎるのが早いな”

 ダリウスは後半の幕開けを見守りながら内心でそう独りごちる。この後にまだアレックスやメロディが控えていることを思えばこれほど頼もしいこともなく、万全の態勢でこの公演に望むことができたことを彼は改めて幸運に思った。
 心配していた訓練生上がりの出番も無事に終わり、陰に日向に彼らを支え導いてきた団長にとっては何とも感慨深い。舞台袖では身体中を強張らせて震えていた新人たちも、温かい拍手に包まれながら戻ってきた時には既に一人前の顔をしていて、まだ微かにあどけなさを残す彼らの成長を直に感じることができるのは教える側に回った者の醍醐味だ。尤も訓練生たちに言わせればデビュー前にダリウスの前で演技を披露する時の方が、本番よりもよほど緊張を強いられる時間だということだが、ともあれ大きな失敗もなく初舞台を成功させられたことは今後の大きな自信となってくれるだろう。

「さあ皆さま、続きましてはいよいよ新進気鋭の奇術師が登場です。若き天才アレッサンドロ・ジラルディーノ、その魅惑のマジックから目をお離しになりませんよう!」

 観客を飽きさせないための趣向を凝らした楽しい時間は瞬く間に過ぎ去り、舞台の上ではついにアレックスの演技が始まろうとしている。期待のこもった無数の視線の中へ現れた手品師は、暗がりでも燃え立つように映える真紅のシャツを身に纏い、篝火の炎を受けて濡れたような艶を放つ黒いシルクのタイを合わせていた。若さと才気を際立たせるその姿に観客席からは感嘆のため息が零れ、それだけでも彼が自分の魅力を最大限に引き出す方法を知り抜いていることは間違いない。

“さて、一体どう魅せてくれるか……”

 アレックスを引き抜いてきた張本人として、ダリウスは注目の若手が初回のステージで発揮してくれるだろう実力のほどを見極めるべく淡いグレーの目を凝らす。優れた演者は客席の反応を自分の力に変えることができるものだが、逆にそれをプレッシャーとして自身を見失ってしまう者も少ないわけではない。ことアレックスに関してはそんな心配など必要ないとはわかっているし、どんなマジックを見せるのかもその流れも把握しているとはいえ、もし……。

“……いや、考えすぎだ。彼は多少自信家なところはあるが腕は確かだし、演出への探究心には余念がない。私がそれを信じなくてどうする?”

 そんなダリウスの葛藤など知る由もなく、アレックスはポケットチーフを鳩に変えるとシルクやロープ、金輪を用いた技へと移っていく。そして盛り上がりが最高潮に達したところで最も得意とするカードを取り出すと鮮やかな手つきでそれを捌き、片手で弾き飛ばした札全てを逆の掌で吸い込むように収めれば満員の観客席からは一斉に賞賛の拍手が湧き上がった。
 若き手品師はカードを何枚にも増やし、また消失させ、破り捨てては別の場所からそれを取り出し、まるで何かに勝負を挑んでいるかの如く息もつけないようなマジックを展開する。心なしかいつもより昂って見える干し棗色の眸は甘くも妖しい魅力を漂わせ、陶酔した観衆が絶えず歓声を上げる様は終盤が近づきつつある舞台を飾るに相応しい。
 ――だが最後の技を華麗に成功へと導いたアレックスが観客席に一礼した直後、数枚の花びらがはらはらとその手から舞い始める。それはすぐに何十枚、何千枚もの紙吹雪へと変わり、末席の観客の元にまで舞い落ちてくるそれを見たダリウスは瞬く間に青ざめた。

“馬鹿な、なぜここで構成を変えたんだ!?”

 単純だが見栄えのいいこの技を演技の締め括りに配置するマジシャンは多い。しかしこれで舞台も終わりという印象を如実に醸し出すことを思えば、このマジックを披露するのはあくまでも公演の最後を飾る場合に限られるというのは手品師たちの常識だ。
 アレックスは一体何を思い今その技を演じることにしたのだろう。この後にメロディが続くことは彼とて当然知っているはずなのに、なぜ?

“まずい……!”

 長い拍手が続く中、これで公演が終了したと思い込んだ幾人かの観客が席を立ち舞台に背を向けようとする。それでも声を荒げて引き留めるような真似をすればそれは一座の汚点となり、団長自らそんな恥を晒すことなどとてもできない――ならば。

「皆さま、アレックスの素晴らしい演技のみならずその甘い笑顔にときめかれた方もおられましょう。ですが当サーカス団きっての花形、メロディ・スターリングのこともゆめゆめお忘れになりませんよう!」

 流れを変えるならここしかないとダリウスが送った合図に気づくや否や、同じく呆気に取られていた司会はベテランらしい巧みな話術ですかさず観客の興味を舞台の上へと引き戻す。

「彼女の空中ブランコをご覧にならずにお帰りになれば必ずや後悔なさいますよ。さあ、どうぞあちらにご注目!」

 その言葉に促されるまま観衆がぱっと火の灯った高台を見上げると、そこには星をあしらったティアラを髪に留め、裾にレースを施した白いビスチェ姿のメロディが優しく微笑みながら観客席に向けて手を振っていた。
 演技を始めるまでの流れが違っていても狼狽えることなく、彼女は流れ出す音楽に合わせてブランコの芯棒を掴むと、軽やかな踏み切りでその身を宙へと解き放つ。そんな仕草だけでも観客の目はあっという間に釘付けとなり、労せず人々の心を惹きつける才能にはダリウスも舌を巻くばかりだ。

“ああ……メロディ、やはり最後は君しかいない”

 恋人が熱く見つめる先でブランコは徐々に振り幅を増し、そこから素早く手を離したメロディは羽根のようにふわりと宙を舞う。彼女が空を翔ける間はあたかも時間が止まっているかのようにさえ見え、多くのサーカスを目にしてきたダリウスでもここまで見事な空中曲芸師はそうそう挙げられるものではない。
 もちろんその才能を最大限に発揮する下地として弛まぬ努力があったことは確かなのだが、たおやかな外見からはすぐに想像し難い精神力もまたメロディを押しも押されぬ花形中の花形たらしめていた。誰もが彼女に注目し、期待し、生半可な技ではもはや心を動かされなくなってしまっても、優美にして可憐なブランコ乗りはいつもその先を魅せてくれる。どんな状況下でも絶対の信頼を置ける、こんな団員がいてくれることが幸福でなければ一体何だと言うのだろう。

「……団長……」

 だがそこへ出番を終えたはずのオードリーとガラテアがどことなく陰った表情をして現れ、団長の胸中を嫌な予感が駆け巡る。

「どうした?」
「実は……メロディが、今さっき楽屋で手に怪我を」
「――何だって!?」

 抑えた声で告げられた言葉の意味を理解するより早く襲いかかる、心臓を鷲掴みにされたかのような激しい恐怖。ダリウスは咄嗟に空中を見上げたが、愛しい恋人は柔らかな笑顔を絶やさぬまま2度目の宙返りを見事に成功させたところだった。