「聞こえる? メロディ、すごい人よ!」

 ――その30分ほど前、舞台裏の控え室で。ペアでエアリアルシルクの演技を終えたオードリーとガラテアが戻って来るなりそう言うと、メロディは口紅を点すために見ていた鏡から顔を上げて明るく同僚たちを迎え入れた。

「お帰りなさい。お疲れさまでした、ドアが閉まっていても歓声がここまで届いていましたよ」
「じゃあこの後はもっとすごくなるかもね。今やってる熊の自転車が終わったら残りはアレックスとあなただけだし」

 既に出演を終えた演者たちは最低限の身支度を整え直すと、アレックスの手品を見るために我先にと出て行ってしまい、男女別に別れた楽屋の女性側にいるのはもうこの3人だけだ。何年も一緒に空中曲芸師として活躍してはいても、それぞれの得意分野は異なっており、そのおかげで仲違いをすることもなく彼女たちの友情は続いている。

「ねえメロディ、あなたも早く行けばアレックスの舞台を少しくらい観られるんじゃない?」
「さっきちょっとだけ通路から見えたけど、本番用の衣装を着てる彼ってすごく色っぽいの!」
「アレックスも観てほしいんじゃないかしら。ほら、彼って明らかにあなたに気がある感じでしょう?」

 白粉を叩く手は止めずに口も動かしながら、すっかり新しいマジシャンを気に入った2人はメロディを無邪気に舞台袖へと誘った。姉妹のように仲が良い同僚の心ここにあらずといった様子に一座のスターは苦笑したが、だからこそその本心を明かすことなどとてもできそうにない。

“彼が少し苦手だなんて、そんな風に思うのはきっと私しかいないもの……”

 正直なところ、メロディはアレックスがやって来てから先というもの心の休まる暇がなかった。今までも彼女のことを知りたいという好意から、自由な時間を共にしようと声をかけてくれる相手は多かったのだが、新しくやってきた奇術師はどうにもそれが頻繁すぎる。公演が近づくにつれてその頻度は四六時中という言葉が相応しいほどになり、独りで過ごす時間などほとんどなかったほどだ。
 練習の終わりや食事時など、まるで諮ったかのように出くわすだけならまだいい。しかしアレックスは言葉巧みに一座の花形と他の団員を切り離し、独占して、取り留めのない話の中にふと彼女のことを探るような質問を織り交ぜてくる。それは決して楽しいことではないのだが、かといって邪険にもできない微妙なものだ。だんだんと度を過ぎてくるアレックスのそんな行動を他の団員はお定まりの恋心として捉えており、羨ましがる者さえいることも悩みの種になり始めている。
 したがって彼の到着から1週間足らずでメロディはどことなく苦手意識を持つに至ってしまったものの、アレックスを連れて来たのは他でもないダリウスだ。普通はスカウトを担当する団員が目をつけた演者を団長に報告し、その演技がダリウスの目に適えば入団を打診される。団長自ら交渉し引き抜いてくるというのはそれだけでも異例のことで、ダリウスをして本格派と言わしめたその腕にかける期待の大きさは言わずとも推し量れようというものだろう。
 だからこそ彼女は自分の思いを封じてでも、多忙な恋人が見込んだ相手を歓迎しようとアレックスの同席を断ったことはなかったし、彼を遠因に練習時間を削らなければならなくなっても不満な素振り1つ見せたことはない。それでも端正な顔立ちの手品師が笑顔で口にする言葉の中に、心を削っていく透明な刃の存在を感じなかったことは1度もなかった。

「メロディ、今夜はお互いがんばろう。一座の勝負どころで失敗なんてできないからね」

 開場前、団長の激励の後でそう囁いたアレックスのどこか貪欲なまなざし。メロディは今更それに微かな震えを感じ、暗い気分を振り払うようにその目を鏡台の上に戻す。そして衣装の1つである羽根飾りのチョーカーを手に取ると、細く華奢な首へと回し……。

「――っ痛!」
「メロディ!?」

 だが留め具をかけようとしたその瞬間、鋭い痛みが右手の親指に走る。はっと手を引けばみるみるうちに大きくなった血の玉が白い羽毛に紅い染みを作り、危うくビスチェのレースにも滴ってしまうところだった。

「何よこれ、針が残ってるじゃない!」

 悲鳴を聞くなり飛んできたオードリーがチョーカーをその場で検めると、ふんだんにあしらわれた羽根の中から待ち針が1本切っ先を現している。身につけようと首に巻くまでは気づくことも難しいだろうそれは、衣装係のミスから生じた偶然か、あるいは何者かの故意か。

「とにかくすぐ団長に伝えないと。あなたに万一のことがあったら――」
「待ってください!」

 落下の危険を伴う空中曲芸師にとって、失敗は文字通り命を失いかねない怪我に繋がる重大なものだ。演技は全身を使うと言っても身体を支えるのはその腕だけが頼りな以上、手指の怪我には慎重であるべきということを彼女たちは誰よりもよく知っている。
 しかしメロディはガラテアが口にしかけた言葉の先を遮るように声を上げると、そのまま地に伏して頼みかねない勢いで2人に言った。

「お願いします……団長には、このことはまだ。このくらいなら大丈夫、少し驚いてしまっただけですから」
「そんな……!」
「冷やせば血は止まりますし、もう少し時間もあります。信じてください、絶対に失敗はしません」

 同僚たちはぎょっとしてメロディを見つめたが、彼女の強い意志は変わらない。一座が今夜にかける意気込みを知っていればこそ花形スターもより洗練された演技を目指し、日々努力を重ねてはその技術を磨いてきた。オードリーとガラテアは最も近くでそれを目にしてきただけに、できるならメロディの思いを無下にしたくないという気持ちもある。怪我が軽いものであるならなおさら、観客とて彼女の出番を待っていることは確かだろう。

「……本当に大丈夫なの?」
「はい、もちろん」

 まだ治まらない痛みを笑顔の裏に隠しつつ、はっきりとそう請け負ったメロディはこうして楽屋を後にした。その背を見送る2人はまだ心配そうな顔をしていたが、演技が始まってしまえばもう誰も彼女を止めることはできない。宙を舞うメロディを呼び戻そうとしたところで、それは団長その人にさえもはやできないことなのだから。

“……!”

 だが怪我を押して舞台裏から高台の上に立った彼女は、天幕中に舞い上がる紙吹雪に己が目を疑うこととなる。アレックスは1度たりともこんなことをするとは口にしなかった。しかし彼が何を考えていようとも、それを理由に演技ができないなどと言うつもりはない。どんな時でもダリウスの期待に応えてみせる、その決意の前には予想外の出来事など瑣末なことに過ぎないのだ。

「――さあ、どうぞあちらにご注目!」

 司会の言葉と同時に仕掛け燭台の炎が灯り、ラベンダーブルーの眸には一流の演者だけが秘め得る力強い光が宿る。アレックスの言葉がなくとも失敗できないのは変わらない。誰よりも愛しい恋人が描くその夢のために、今夜は絶対に満席の観客たちを沸かせてみせなければ。

“時間よ。メロディ、集中しなさい!”

 自身を心で叱咤しながら掛け金に留められたブランコを外し、その芯棒を握るとずきりと響く指先の痛みに微かな汗が額を濡らす。しかし満天の星空を思わせる美しい旋律のセレナーデが奏でられ始めた時、メロディの身体は一片の躊躇もなくいつもと同じ反応を返した。無意識のうちに広い空を求め、その足を宙へと踏み出していたのだ。