数多の公演を開催する中、演者が常に万全の状態で出演できるとは限らない。それでも彼らは時間が来れば舞台に上がり、場合によっては果敢な挑戦を自らに強いてでも観客の心を満たすことに専念する。人々は驚きや感動を期待し、胸を高鳴らせてその足を天幕へと運ぶのだ。誇りある曲芸師ならばどんな苦境にあったとしても、目を輝かせた子供たちの前では中途半端な演技などできないと気を引き締めることだろう。
 然して今夜のメロディもまた負ったばかりの怪我を押し、自分の全てをこの場に懸ける。どんな事情があろうとも、舞台に立つと決めたのならば許される結果は成功のみだ。演者たちは自身が魅せる技を用い、夢のような時間を生み出すことをその生業としているのだから。

“1、2――3!”

 数え切れないほど繰り返してきた動きに導かれるまま身を委ね、花形スターは見事な宙返りを披露する。戻り際に芯棒を掴んだ時でこそ傷の痛みを感じはしたが、例え目隠しをされていたところでメロディは同じ技を軽々とこなしてみせただろう。調子がいい時も悪い時も、何をどう工夫すれば1番良い魅せ方ができるのかを彼女は身体で覚えている。この1週間は満足な練習ができなかったとは言え、積み重ねてきた長い年月は嘘をつかない。今この時にも自分を見つめてくれているだろうダリウスのことを想い、メロディはふっと表情を和らげると再びその手に力を込めた。

「あのお姉ちゃん本当に翔んでるみたい……」

 曲芸師の細腕がブランコから離れる度に観客たちは息を呑み、空中に艶めいてなびく明るい髪の1本1本までもをはっきりとその目に焼き付ける。彼女が向きを変え、あるいは芯棒の上に腰を下ろし、同時に揺れるいくつものブランコの間を飛び渡っていくのは全て一瞬の出来事で、瞬きも忘れて演技に魅入る子供たちはその背に白い羽根の幻を見ていたに違いない。
 アレックスの演技中、次々に繰り出されるマジックを追いかける客席のざわめきと熱狂は途切れることがなかった。一方でメロディのそれは手に汗握り演者を見守る静けさと、その後の大歓声が大きな一体感と達成感とを観衆にもたらし、他のどんなことも頭に浮かばないほど観ている者の心を彼女に惹きつけてしまう。その演技は華やかながらどこか懐かしさをも感じさせ、大人たちは幼い頃に初めて訪れたサーカスを思い出さずにはいられない。そして誰もが思うのだ――その一座でブランコに乗っていたのも、きっとメロディのように可憐な空中曲芸師だったのだろうと。

“さあ、最後の1つ……!”

 音楽に乗って風を切りつつ、彼女は優雅な仕草で自在に空を舞っていく。ここまで全ての流れを完璧にこなしてきたメロディには、演技を締めくくるにあたり選択肢が2つあった。1つは予定通りブランコから最初に立っていた高台の上へと飛び渡り、そこからひねりを加えた宙返りを踏み切りとして返ってきたブランコに戻るという技。そしてもう1つはこの公演のため密かに練習していたものの、成功率が低かったため取り入れるのを見送っていた大技だ。
 怪我をしているということを考慮するまでもなく、確実に成功を収めたいのなら前者以外の選択はあり得ない。しかしそれでは今夜の公演に求められている目も覚めるような衝撃を届けることは叶わず、観客たちは素晴らしい時間を過ごしたと思いはしても、他の一座との間に決定的な差を見出すことはないだろう。
 それ故にいかなるサーカス団もこれまで披露したことのない技、それを持っていると世に知らしめることがエフェメール一座の格を一気に押し上げる鍵となる。もし後者に挑むべき時があるとするなら、それはきっと今しかない。最も注目を集める初日の公演だからこそ、その印象が何より深く記憶に残ることを一座の華は知っているのだ。

“ダリウス、お願い……どうか私を見守っていて!”

 恋人に祈りを捧げたメロディは心を決めると1度深く息を吸い、異なった間隔で揺れる2台のブランコを巧みに操りながら望む動きに合わせていく。危険と隣り合わせの舞台で自身の限界を試すのが恐くないと言えばそれは嘘になるだろうが、愛するダリウスが喜んでくれると思えば彼女はどんなことをも厭いはしない。今のメロディにとっては負ってしまった指先の痛みですらも、あらゆる感覚を鋭敏に研ぎ澄ませてくれるささやかな幸運に変わっていた。
 ――そして2台のブランコが寸分違わず理想通りの振れ幅に合致した時、確固たる意志を秘めた若き空中曲芸師は再び両手を芯棒から離す。

「…………!」

 メロディを仰ぎ見ていた人々は、その時目にした光景をずっと忘れることなどないだろう。彼女は振り子の頂点に達したブランコから流れるような動きで手を離すと、己が身を空中に投げ出しつつも素早く2回宙返りをし、これ以上ないほど絶妙のタイミングで戻ってきたもう片方の芯棒を両手でしっかりと掴んだのだから。

「――っ!」

 メロディは落下の衝撃で生じた激しい痛みに思わず顔を歪めるも、分厚い天幕をも震わせるほどの大歓声は今しがたの技が確かに成功したことを伝えてくれる。だが身体に多大な負担を余儀なくされることは事実で、残念ながら毎晩続いて何度も披露できるような類のものではない。それでも今夜この場で成し遂げたことの意味は計り知れないほどに大きく、ゆっくりと降ろされていくブランコの芯棒に腰かけて手を振る彼女の胸には、言葉にできない感慨深い思いが込み上げていた。

「素晴らしい演技は時間を忘れさせると申しますが、今宵のブランコはまさに神業! 皆さま、花形スターの名に恥じない技をしかとご覧いただけましたか? どうぞメロディにねぎらいの拍手をお願いいたします!」

 鳴り止まない客席からの拍手の中、メロディは笑顔で歓声に応えながらステージの中央へと降り立つ。その足元ではアレックスの撒いた紙吹雪がふわりと舞い上がり、愛らしい姿により一層の花を添えていた。終演前の挨拶のため控えていた他の団員たちも彼女の周りに立ち並ぶが、メロディの髪飾りにあしらわれた星は群を抜いて美しい煌めきを放っている。あたかも夜空で輝く本物の如く、どんなに鮮やかな衣装の前でも決して霞みはしないほど。

「それでは団員一同より今夜お越しの皆さまに大きな感謝を! またのご来場を心よりお待ちしております!」

 整列した演者たちは一礼し、未だ興奮醒めやらぬといった雰囲気で帰り支度をする観客を見送る。そして客席に見える姿も疎らになったところで、ようやく団員たちも看板曲芸師を褒め称えながら舞台袖へと引き上げていたが、背後から聞こえた小さな声がメロディをその場に引き留めた。

「驚いたな……まさかあんな技を隠していただなんて」

 びくりと肩を震わせて振り向けば、そこにいたのは端正な顔をどことなく青ざめさせた奇術師で、干し棗色の眸にはなぜかほのかな陰りが見える。

「メロディ、君は確かに一座の花形だ。正真正銘、本物のスターだよ」

 賞賛の言葉とは裏腹にその笑顔には微かな綻びがあり、困惑するメロディを一瞥したアレックスは足早に他の団員の後を追うと、そのままステージから立ち去った。
 独り残された格好のメロディは途端に急激な疲労を感じ、足取りは自然と重くなる。だが控え室へと続く通路に差しかかった時、足元を覆った影に彼女がつと顔を上げると。

「……君を待っていた。私と一緒に来てほしい」

 血の気の引いた薄い唇を引き結び、険しい表情をしたダリウスがそこに立っていた。