花形スターが戸惑いつつも頷くのを確かめるや否や、団長は踵を返すと真っ直ぐに医務室へ向かう。一座の医者にメロディの腕と指を診せ、多少の張りがある以外に問題はないという結論を得た後もまだダリウスは彼女を解放しようとはしない。慌ただしく片付けに追われ行き交う団員たちでさえも声をかけることを躊躇してしまうほど彼が身に纏う雰囲気は厳しく、それは自ら率いる一座の公演で空前の成功を収めた責任者の姿にはとても見えなかった。
ダリウスは無造作に置かれた大道具の合間を縫うようにして団長室までたどり着くと、メロディを中に入れるなりすぐに扉を閉めて鍵をかける。
「オードリーとガラテアから聞いた、衣装に残っていた針で怪我をしたと。間違いないか?」
振り向くなりそう尋ねられるまでもなく、ブランコ乗りは団長の顔を見た瞬間から彼が自分の怪我を知っていることを悟っていた。こんな事態を避けたいがために黙っていてくれるよう頼んだとは言え、自分も同じ立場であればきっと言わずにはいられなかっただろうと思うと同僚を責める気にはなれない。困らせたいがためではなく、本当に心配しているからこそだとわかっているならなおさらだ。
黙ったまま小さく頷いたメロディに団長は深いため息をつき、淡々と今後の対応を通達する。
「わかった、それが偶然かそうでないかはすぐに調査する。いずれにせよ君が怪我をしたという事実がある以上、私はこのことを有耶無耶にしておくつもりはない。ところで……」
ダリウスはそこで1度言葉を切ったが、次の問いを投げかけた声は日頃の彼からは想像もつかないほど痛々しく力のないものだった。
「……なぜそれでも舞台に立った?」
「!」
俯いていたメロディが弾かれたように視線を上げれば相手はただじっと彼女を見つめていて、その目は憂いに曇っていてもまだ彼が“団長”として振る舞おうとしていることを示している。気圧されてしまいそうなほど真剣なその顔を見てしまうと、自分の行動がどれだけ大きな代償を伴うものだったのかを改めて考えずにはいられない。結果こそ上手くいったとは言え、団員としてのメロディが分の悪い賭けに出てもいい立場ではないことを省みれば、その責任はアレックスの気まぐれな紙吹雪よりも遥かに重大だ。
優しく、公正で、頼り甲斐のある人物であることに変わりはなくとも、団長という肩書きで呼ばれる時のダリウスの印象を団員たちが挙げるとすれば、まず最初に口に上がるのは何よりもその厳しさに尽きる。他人にそうである以上に自らに対してもその姿勢を貫き、またその根底には相手への深い理解と思いやりがあるからこそ、彼は誰からも尊敬される団長として一座を1つにまとめてきた。それ故に自身の仕事に対して必ずしも最良の手段を用いなかった者に対しては、例え永遠の愛を誓った恋人であろうと追及の手は緩めない。
したがってメロディはこの場を濁して終わりにすることも許されず、彼を納得させられるだけの理由を述べる必要があった。だがどんな嘘や偽りもあっという間に見破ってしまう相手の前では、正直に全てを告白する以外の道など最初からない。それを理解している彼女はしばしの逡巡の後に重い口を開く。
「降りるほどの怪我ではなかったからです。現に失敗はしていませんし、公演も無事に成功――」
「それは単なる結果論に過ぎない」
言葉を終える間もなく鋭い声に遮られ、メロディは思わず口を噤んだ。灰色の双眸は悲嘆と険しさを宿したまま、それでも彼女の上から外されることはない。
「確かに公演は大成功だ。しかし一歩間違っていれば大惨事になっていただろう。君があんな大技を披露するとは夢にも思っていなかったが、怪我の話を聞いてさえいなければ私も諸手を挙げて狂喜せんばかりだったかもしれないがね」
早口に続けられれたその言葉はしかし、怒りではなく沈痛なまでの憤りに満ちていた。今や一座を束ねる長としての冷静さは影を潜め、見ているこちらの胸が引き裂かれそうなほどの心痛がその佇まいには滲んでいる。
「団長として私は君に絶対の信頼を置いているし、その腕を頼りにしてもいる。だが怪我をしていても降板を許さないほど血も涙もない責任者ではないつもりだ。そして私個人としては……」
ダリウスはそこで再び言葉を切った。あるいは続けることなどもうとてもできなかったのかもしれない。
「……っメロディ……!」
その名を口にした彼はそれ以上の会話などもどかしいとばかりにメロディを抱きしめると、想いの全てを注ぐように激しく彼女の唇を奪った。愛する恋人の存在を証明するかのように絶えず繰り返されるキス、痛いほどの力が込められた腕。それらはダリウスがどれほどの恐怖に苛まれていたのかを無言のうちに示しており、こんなにも苦しめてしまったことをメロディは改めて思い知る。彼の頬は乾いているのに、その口づけは切ない涙の味がした。
「ああ……君が怪我をしていると聞いた時、私は自分の心臓がその場で止まってしまうかと思った。演技が終わるまで私がどんな思いをしていたか、君は本当にわかっているのか?」
憔悴しきった恋人から震える声でそう問われ、若きブランコ乗りはその背を強くかき抱いて謝罪の言葉に代えることしかできない。2人はそれから何度も唇を重ねた後でやっと互いに回した腕を解いたが、ダリウスはメロディの双肩に手を置くとその眸から目を離さぬまま念を押す。
「いいかいメロディ、君も私を愛していてくれるのならどうか私の寿命をこれ以上縮ませるようなことはしないでくれ。君の身にもしものことがあれば私は自分を許せない」
「ダリウス……」
「君もプロだ、舞台に上がるか否かの判断は任せる。だがこれはまずいと思った時は――約束してほしい、絶対に無理なことはしないと」
こんな思いをさせてもなおその意思を尊重し、選択の自由を委ねてくれることに深い愛情を感じない者がいるだろうか。メロディはあらん限りの感謝を込めて力強く頷き、そこでようやくダリウスの穏やかな笑顔を目にする権利を手に入れる。その胸に優しく抱きしめられ、甘く喜びに満ちた口づけを交わし合える幸福も。
「メロディ、君が大切なんだ。君を心から愛してる」
そう囁いた彼は捧げ持つようにメロディの手を取ると、傷を癒そうとするかの如く細い指先にそっと自身の唇で触れた。淡いブルーの眸からはついに涙が零れ落ちたが、ダリウスの大きな掌はそんな彼女の頬をすぐに温かく包んでくれる。
「あまり独りで何もかも背負おうとしないでくれ。私のためを思ってくれるのは嬉しいが、もう少し肩の力を抜くことも覚えた方がいい。アレックスを一座に呼んだのはそんな君の負担を軽くしたいという目的もあったんだが――っと、そうだ」
涙を拭っていた手を止め、団長は花形スターにキスを贈ると静かに言った。
「なぜあんな変更を加えたのかは直接彼に聞かなければいけないな。さあ、まだ君とこうしていたいがそろそろ時間だ」
またすぐ逢えるとわかっていても別れを惜しむ思いは尽きない。だが2人はお互いの為すべきことのため、最後に再び強く抱き合い唇を重ねると短い逢瀬に終わりを告げる。
「お休み、メロディ。今夜は君の素晴らしい演技をもう1度夢に見るよ」
「私もあなたの夢を見ます。ダリウス、だからその時は……」
“夜が明けるまで傍にいてください”と続けた彼女に、恋人が愛しげなまなざしで深く頷いたことは言うまでもない。