どんな時も冷静沈着な対応を誇るダリウスがここまで取り乱しながらも彼女を降板させなかったのは、怪我の具合が軽度で済んだということの他、オードリーたちに告げられるまで彼の目をも欺けるほどメロディが見事に出番を務めていたからということも大きかったかもしれない。もしすぐに気づかれるほどの支障が出ていたら、団長はどんな手段を用いてでも途中で演技を切り上げるよう指示を出していただろうし、終わった後の叱責も今しがたの比ではなかったはずだ。ダリウスがこうも狼狽していたのは、それに気づくことができなかった自身への憤りもあったのだろう。
 実際、メロディは常に練習を共にしている同僚2人にも気づかれなかった脚の怪我を、恋人になる以前の彼にだけは見抜かれていたという過去がある。今から3年ほど前、いよいよ彼女が演目の最後を飾る花形曲芸師へと上り詰めようとしていた頃、その名が突然出演者を告知するリストに載らなくなったことがあった。理由が思い当たらない団員たちは皆一様に驚いたものだが、当の本人はいかばかりだっただろうか? 深く恋い慕う憧れの人物の力になりたい一心でその芸を磨いてきたメロディにとって、彼に選ばれし演者から外されるということは正に目の前が真っ暗になるほどの衝撃にも等しい出来事だったのだから。

「――君を降ろした理由?」
「はい」

 諦めきれない彼女は次回の出演者が発表されたその日の夜、まだ独り仕事を続けていたダリウスを団長室に訪ねた。勇気を振り絞って采配の意図を問いかけたメロディに彼は机の上で指を組むと、秘密の話をするかのように声を落として彼女に告げる。

「……思えば私は常に君を公演のメンバーに入れてきた。初舞台を踏んでからというもの君は見事な演技を披露し続けてくれていたが、ほんの僅かではあるもののここ最近は精彩を欠いてきている。そして何より左脚を痛めているだろう。降板の直接の理由はそれだ」

 さも当然の如くそう言われ、メロディは一瞬返す言葉をなくした。誰あろう団長その人に知れれば演者には選ばれないとわかっていたからこそ、仲間たちにすら気づかれないよう細心の注意を払ってきたのだ。それなのに……。

「隠そうとしていてもそのくらいわかるさ。他の団員が気がつかないのが不思議なくらいだ」
「で、でもこのくらいの怪我なら舞台には立てます。他の人が気づかないのなら、これまでのように演技をしたって――」
「メロディ」

 ダリウスはそれ以上続けることは許さないとでも言うかのように鋭くその名を呼ぶと、立ち尽くす彼女を真っ直ぐに見据えて宣告する。

「君を降ろすと決めたのは私だ。この決定を覆す気はない」
「……!」

 何かを言おうと開きかけた唇はしかし、何も伝えられないまま再び噛み締められるしかなかった。抑え込まれた感情は涙となってあふれ出し、メロディは震える手でその目元を拭おうとする。だが席を立ち机を回り込んだ団長は胸ポケットからチーフを引き抜くと、彼女の濡れた頬に広げたそれを当てながら小さな声で呟いた。

「……なぜ君はそんなに無理をしようとするんだ」

 メロディは単なる団員の1人に過ぎず、彼の胸に抱きしめられ慰めてもらえるような立場にはない。17歳だった彼女にはその温もりがこんなにも恋しくてたまらないのに、ダリウスの目にはいつまでも迷子になって泣いていた幼い少女の姿が映っているのだろう。
 それでもメロディは彼の特別な存在になりたかった。ステージに立っていない時でもダリウスの力になれる、そんなたった1人の存在に。だがそれが叶わないなら舞台の上では彼に認めてもらえる、団長の役に立てる自分でありたかった。恋人として選んでもらえる日が来ないのなら、せめて優秀な曲芸師としてだけでもその傍に居場所が欲しかったのだ。

「舞台を降りたら……私、団長のお役に立てません……」

 しかし彼女が胸を詰まらせながらそう答えた時、滲んだ視界越しでもはっきりとわかるほどダリウスが息を呑む気配がした。そして零れ続ける涙を拭うのとは逆の手に優しく髪を撫でられたかと思うと、メロディはそのまま夢にまで見た彼の腕に包まれる。

「メロディ、そんなことは言わないでくれ。君はもう十分私を支えてくれているよ」
「え……?」
「君は今や名実共に一座の星だ。思っていたよりずっと早く君はここまで来てくれた。そのためにどれほどの努力をしてきたか、それを私が知らないと思われては困る」

 耳元で囁かれたその言葉に顔を上げると、団長は灰色の目をどこか眩しそうに細めて彼女を見つめていた。訓練生として再会してからその時までには7年の月日が経っていたが、彼がこんな風にメロディを見たことなどきっと1度もなかったはずだ。

「生真面目な君には難しいかもしれないがね、これは単なる休暇だと思ってくれればいい。きちんと怪我を治してくれるならどれだけ時間がかかろうといつまでも待つよ。そして――」

 ぎゅっとその腕に力を込め、ダリウスはもはや美しい乙女へと成長した彼女に誓う。

「戻ってきてくれた時には今度こそ、私から今の君に1番相応しい場所を贈らせてくれ」

 その約束が交わされて以来、一座で最も優れた演者が務める位置をメロディが他人に譲ったことはない。団長が1人の団員に贈り得る最高の信頼の証であるそれを受けるにあたり、彼女がどんな想いを抱いたのかは今更明かすまでもないだろう。恋人として愛し合うようになる前も後も、メロディはダリウスを喜ばせたい一心で可憐に宙を舞い続けている。今でも一流の奇術師として語り継がれる彼の名に恥じぬよう、胸を張って隣に立てる自分で在り続けられるように。

「――メロディ!」

 公演中の喧騒は幻だったかのような静けさが満ちる夜のサーカス。今やダリウスと熱い口づけを交わせる立場となったメロディがもう誰もいないと思っていた楽屋の扉を開くと、そこではオードリーとガラテアが不安そうな表情で彼女の帰りを待っていた。2人は驚きに目を瞬く同僚の名を呼ぶとその傍へと駆け寄り、彼女の化粧が涙で滲んでいることに気づくとさっと顔を曇らせる。

「あなたが怪我してるって聞いた時、団長すごく恐い顔してたの……」
「ごめんね。言わない方がいいのかすごく悩んだけど、やっぱり私たち心配で」

 2人とてこの一座に腰を据えて長く、団長に打ち明けてしまえばメロディがきつい説教を受けるであろうとわかっていても、彼女自身の身の安全には変えられない。しかしそうするに値するだけの理由があろうと友人の願いを無下にしてしまったことは事実であり、肩を落とした彼女たちにとっては今夜の大成功も手放しで喜べるものではなかったのだろう。メロディはそんな同僚たちの真摯な謝罪に胸を打たれ、いつもと変わらぬ笑顔で言った。

「大丈夫です。確かに団長には怒られましたが、医務室で診てもらっても問題はありませんでした」
「本当に?」
「2人には嫌な役をさせてしまってごめんなさい。でもこのことは他の人には秘密にしていてもらえますか。きっと衣装係の誰かがうっかりしただけだと思いますし、必要以上に気に病んでほしくはないので」
「……そうね、あなたが怪我してるなんて知ったらきっとみんなも動揺するし」
「わかった、約束する」

 ようやくほっとした顔を見せる同僚たちにメロディは微笑み、部屋へと戻る2人を送り出しながらはっきりと告げる。

「心配しないでください。公演が続く限り、私は舞台を降りたりしません」