例え目を凝らして見ていたところで、いつそれが行われたかもわからないほど鮮やかに鍵を預けた後、ダリウスはさり気なくその場を離れ日課の見回りに向かう。華やかに舞台を盛り上げてくれた動物たちは既にぐっすりと眠りに就いていて、夜のサーカスを明るく照らす月の光は柔らかい。そして一通りの作業を終えた団長は盛り上がる団員たちの声を遠くに聞きながら懐中時計を取り出すと、文字盤が示す時刻を確認してからようやくその足を自室へと向けた。

「お帰りなさい」

 小さな灯りのついた部屋ではメロディが彼を待っており、ダリウスは素早く扉を閉めると恋人をその腕に抱きしめる。

「待たせてしまったかな」
「いいえ。私も今着いたところですから」

 愛しい温もり、鼻先を擽る甘い香り。ほんのひと時とは言え一座の責任者という立場から解き放たれた彼は何憚ることなくメロディに唇を寄せ、逢えなかった時間を埋めるような熱く深い口づけを贈って言った。

「2年前のことを思い出していたんだ。あの日もこうして君は私を待っていてくれたね」

 耳元でそう囁けば彼女の頬はぱっと紅く染まり、恥ずかしげに目を伏せながらもごもごと呟く。

「ダリウス、そんな昔のこと」
「忘れたことなどないさ。何せ君が初めて言ってくれた日だ……私を愛していると」

 ――その夜も一座はとある片田舎での公演を終え、町の小さな酒場を占領する代わりに自前の食堂で団長の計らいによる祝杯を上げていた。興行の直前に18歳の誕生日を迎えていたメロディから、2人だけで話したいことがあると囁かれたのは乾杯からしばしの時が経った頃で、思案の末に自室の鍵を渡したことを今となっては苦笑する。彼女が成人と見做される年齢に達する時をずっと待っていたことなどダリウス自身もどこかでわかっていたはずで、そう信ずるに足るだけの年月を既に2人は共有していた。メロディが自分に抱いてくれている好意が単なる敬愛からいつしか1人の男に寄せる思慕へと変わったことさえ、知らないのではなく単に気づかないふりをしていただけだったのだから。

『団長、あなたを愛しているんです』

 彼女が告げたその言葉とてきっと予想はついていた。それでいて少なからぬ驚きを覚えてしまったのは、この時が来るのを待ち侘びながらも同時に恐れていたからだろうか。
 かつての自身に憧れサーカスの一員となった少女が幾多の試練を乗り越えステージへのデビューを果たした時、彼女は素晴らしい演技で観客席を沸かせてみせた。その眩しい笑顔に息を呑むほど魅せられてしまった瞬間から、ダリウスにとってメロディは他の誰とも違う存在になっていたのだろう。自らも1人の舞台人として数多の輝かしい演者を知る自負がありながら、彼はこの才能あふれる若き曲芸師に一瞬で心を奪われてしまったのだ。
 公私を混同するつもりもないとは言え、以来怪我をするまでメロディを起用し続けてきた自分にもっと彼女の演技を観ていたいという気持ちが全くなかったと言えばそれはきっと嘘になる。そしてメロディがもはや幼い子供ではなく1人の魅力的な女性なのだと気づかされた頃、彼女への心酔は恋と呼ばれる想いへとその名を変えていた。

「でもあなたはとても難しい顔をして、すぐに返事はできないと言っただけだったでしょう?」
「……それを言われてしまうと返す言葉もないな」

 老若男女を問わずに好かれる優しい性格、可憐で麗しいブルーの眸。花形スターでありながら誰よりも日々の努力を欠かさず、サーカスの生活を熟知した上でそれでもダリウスを支えたいと願ってくれる。そんな稀有な相手がこんなに近くにいたことをようやく認識したとしても、立場上その想いを彼から打ち明けることはできなかった。さりとてダリウスはついに訪れた一世一代の告白に対しても時間がほしいと返すに留めただけで、自分も彼女を愛していたとその場で明かしはしなかったのだ。
 自身の一座を旗揚げしてからはそんな相手を作る余裕もなかったとは言え、今まで付き合ったいかなる恋人たちともメロディは決定的に違っている。彼女はあまりにも深くダリウスを知っているが故に、団長と団員としての線引きを1度でも超えてしまったなら、もはや離れることなど決して考えられなくなってしまうだろう。もし若いメロディが熱病のような恋から醒めてしまう日が来たならば、自分はもう2度とこれまでと同じ生活になど戻れない。遥かに歳上の彼は“その時”を臆さずにはいられず、待ち望んでいた愛の言葉に果てしない喜びを感じながらも、ずっと胸に秘めていた本心を口にすることは叶わなかった。

「本当に悪かった。いつか君が去って行ってしまう日が来るんじゃないかと思うと、あの時の私はまだこうして君と過ごす喜びを知ってしまうのが恐かったんだ」
「今ならもうそんな日は来ないとわかってくれていますよね?」
「もちろんだとも」

 振り返れば当時の自分は何も理解できていなかったのだろう。幻滅されることに怯えるまでもなく、彼女は自分の弱さも含めたあらゆる面を長年その目に焼き付けてきたのだ。手品師や団長としてだけではない、ダリウス・エフェメールという個人の全てを愛してくれたからこそメロディはやって来てくれたのだと、今ならばこんなにも簡単に気づくことができるというのに。

「おはようございます、団長」
「ああ、おはよう」

 しかし愛を告白された後も、ダリウスはこれまでと同じ態度を崩さなかった。彼女もそれを無言の答えと受け取ったのか、傍目にはそれまでと何も変わらない日々が過ぎていく。それがただの甘えや逃げでしかないとわかっていても、彼はこうすることがお互いにとって最良の道だと思い込んでいたかったのだ。
 だがそれから1ヶ月ほどが経ったある日、ダリウスはその考えが酷く間違っていたと痛感することになる。一座の用事でメロディの部屋を訪れようとしていた彼は、微かに開いた扉の隙間から偶然目にしてしまったのだ――昔の自分が贈った古い縫いぐるみを抱きしめたまま、声を殺して涙していた彼女の姿を。その震える肩を見た瞬間、ダリウスはメロディが笑顔の下に押し殺してきた圧倒的な悲しみを悟った。どんな理由を並べたところで彼女はまだ18歳でしかなく、こんな仕打ちに傷ついていないはずがない。外をよぎったダリウスの影にメロディが気づくことはなかったが、その場を後にした彼は自らの残酷な振る舞いを心底悔いた。
 メロディは今でもこんな男を愛してくれているのだろうか? 犯した罪はあまりにも大きく、もはや全ては遅すぎるのかもしれない。だが、もし。もしそれを償い本当の想いを告げることが許されるなら……。

「来てくれてありがとう。こんな話はしたくないかもしれないが、もう1度だけ聞かせてほしい」

 その日の夜、ダリウスは再び自分の部屋で彼女と向き合っていた。短い沈黙の後で今も自分を愛しているかと尋ねた彼にメロディは目を瞬いたが、返された言葉に迷いはない。

「はい。私の気持ちは変わりません」

 そして彼女は静かに続ける――“あなたの返事を聞かせてください”と。ダリウスは今度こそその愛に報いるため、想いのままにメロディを抱き寄せるとついに真実を打ち明けた。

「メロディ、私も愛しているよ。ずっと君が好きだったんだ……辛い思いをさせてすまなかった」

 それを聞いたラベンダーブルーの双眸には喜びの涙が煌めき、2人はどちらからともなく目を閉じて優しく唇を重ねる。これから数え切れないほど交わされる幸せな口づけの1回目と共に、秘密の恋人たちの関係はこうしてその幕を開けたのだった。