短い休みを経て一座は公演を再開し、それからの日々は飛ぶように早く過ぎていった。毎晩絶え間なく響き渡る大歓声は、開幕直後から惜しみない拍手と共に演者たちへと送られていたが、中でもアレックスとメロディに対するそれは格別だ。見目麗しく演技も素晴らしい美男美女が揃って並び立ち、演目終わりの挨拶のために観客席に向かって手を振れば、まるで恋人たちを囃し立てるような口笛がいくつも飛んでくる。
 アレックスはこの短い期間で花形スターに匹敵するほどの人気を集めており、メロディはそれが決して恵まれた容姿のせいだけではないということも理解していた。ダリウスの目に適ったマジックの腕前は確かに見事なもので、その若さでここまでの技術を習得している手品師を他に見つけ出すのは難しい。もし彼にあと少しばかり謙虚さや人の意見を聞き入れる柔軟性があったならば、あるいはこの街での公演中にサーカス内で最も優れた演者の名声を手に入れることさえ不可能ではなかっただろう。一座に合流したての新顔でありながら誰よりもメロディに肉薄した存在であり、団員たちからも絶賛されていることを考慮すれば、アレックスは十分それに値する力を備えていたのだから。

“……それなのにあの人なら安心できると思えないのはどうしてかしら……”

 誰よりも厳しい研鑽を重ねることで手にした今の地位とて、自分よりも優れた演者が現れたのなら躊躇せずその座を退ける自信はある。彼女の夢はダリウスのサーカスを支えることであり、実力の伴わなくなった称号にしがみつくことではないからだ。しかしもしも今のアレックスにエフェメール一座の看板を任せるとなれば、メロディは恐らくそれを快く受け入れられはしないだろうし、もう1度その場所へ返り咲くためならあらゆる努力を惜しまないことだろう。そんな風に思ってしまったのは初めてのことで、彼女の唇からは知らずとため息ばかりが零れてしまう。
 これまでも花形演者に迫る実力と勢いを兼ね備えていた相手はいたというのに、どういうわけかあの亜麻色の髪をした奇術師にだけは素直に看板を託そうという気になれない。だがアレックスの資質を疑うということは恋人の目を信用していないようで、それがどうにも彼女の気を重くしていた。元より団長としてのダリウスの方針に口を挟む気などないのだから当然のことなのだが、この言い知れぬ不安から解放される日は果たしてやって来るのだろうか……?

「――あ、メロディ!」

 そんな思いを抱えながら迎えた公演最終日の昼下がり、昼食を済ませ部屋に戻ろうとしていたメロディは事務員の声に呼び留められて振り返る。

「何か?」
「ちょうど探してたのよ。手が空いてたら来てほしいって、団長が」

 そう頻繁ではないにせよ、団長が花形スターを呼び出すことが珍しいというわけではない。彼女はすぐに了承の返事を返し、その足をダリウスの待つ団長室へと向けた。
 賑わう廊下ですれ違うたくさんの団員たちは幕の開く夜が待ちきれないと言った雰囲気で、この街の観客を最後まで楽しませてみせるという意欲と気力にあふれている。どんなに疲れが溜まっていようと最後の一瞬まで気を抜かず、より良い演技を披露しようという熱意を絶やすことはない。旗上げ以来少なからぬ者がこの一座にやって来てはまた去って行ったが、長く残っている団員たちは皆、誰かを楽しませるという行為に自らの喜びを見出せる者ばかりだ。それこそが一座を率いる団長自身の信念であり、メロディもまたそれを受け継いでいることは言うまでもないだろう。
 幼い少女は1人の手品師とめぐり逢い、彼に憧れ芸の道を志した。そんな彼女は長じて後に自らの夢を叶え、今ではそれを与える側に立っている。ダリウスのマジックを見た時に感じたものと同じ気持ちを、自分の演技を通じて少しでも多くの人へ届けられるようにと願いながら。

“……?”

 馴染みの扉の前まで来ると、中からは微かに話し声が聞こえてくる。団長は独り言を言うような性質ではなく、したがって中には既に先客がいるということなのだろう。その用が終わるまで待とうかとも考えたが、ダリウスがメロディを呼んでいることもまた事実だ。

「団長、メロディ・スターリングです」
「待っていたよ。入ってくれ」

 しばしの逡巡の後で戸板を叩いた彼女が迷いながらもそう告げると、中からはあっさりと入室を許可する返事が返る。それに促されて戸を開いたメロディは1歩を踏み出そうとしたが、大きな机を挟んで団長と向かい合っている人物を目にして驚かずにはいられなかった。

「やあ、メロディ」

 そこはかとない優越感を滲ませ、満足そうな笑みを浮かべてそう言ったのはアレックスだ。彼の足元には大量のカードが落ちていて、ここで何らかのマジックを演じていたのだろうということがわかる。思い返せばその日は朝からアレックスの姿を見かけることはなかったが、それもこうして話し合いの場を持つための準備に充てていたのかもしれない。

「急に呼び出してすまない。だが君にも立ち会ってもらった方がよさそうな話でね」
「それは構いませんが……」

 どこか難しい面持ちのダリウスに戸惑いつつも彼女が前へと歩み出ると、まだ手に残る数枚のカードを弄びながら端正な顔の奇術師が告げる。

「単刀直入に言えば君の持ち時間を少し僕に分けてほしいんだ。見栄えのいい大技を思いついてね、本来なら最後に披露すべきところなんだけど」
「!」

 アレックスの言う“最後”が全ての演目の終わり、つまりメロディが現在持ち場としている位置を示していることはすぐにわかった。そして彼の表情から察するに、もしその場を任されればうまくやってのける自信ももちろんあるのだろう。個人的な思いを言うなら答えは否だが、彼らが顔を合わせているのは団長室だ。一座全体の舵を取る部屋の主こそがこういった決断を下すに適した人物であり、またその決定は常に絶対であることを彼女は決して疎かにしない。

「私は団長の判断に従います」

 メロディがそう答えるや否や、アレックスは予想通りとでも言うように軽く鼻を鳴らし、机の上で指を組んだままの団長に向き直る。

「……だそうですよ?」

 切り札によほど自信を持っているのか、その口調は軽快だ。しかしダリウスは短い熟考の末、伏せていた目を上げると静かに言った。

「今回はただでさえプログラムの数が多い。どうしてもその技を組み込みたいのなら、君の演技を再構成することでどうにかならないか?」

 その返事に野心を感じさせる微笑みが翳り、若き手品師は眉を顰める。それでも続く言葉がないと知れると頭を振って口を開くが、渋々ながらということは歴然だ。

「どれも落としたくはありませんが……強いて言うならシルクですかね。あれは1番簡単ですし」
「それは得策とは言えない。君のシルクマジックは子供たちに好評だ」
「は! 団長、チケットを買うのは彼らじゃありませんよ」

 アレックスは今度こそ鼻で笑い、そんなことなど問題ではないと言わんばかりに干し棗色の眸を細めてみせる。

「元々子供受けするようなマジックをするつもりはないんです。僕は初めからあなたのような目利きの方々に的を絞っていますから。それに子供がいくら来たところで懐は潤いません、そうでしょう?」

 その瞬間にメロディは確信した。彼はこの一座が目指すものを理解していない、団長の思いとは相容れない人物だったということを。