「……君の言い分はよくわかったが、それでも今夜の舞台に関する変更は承認できない」
部屋を包む沈黙を破るように響いたダリウスの声は如実に疲れを滲ませていて、メロディは恋人の心中を慮らずにはいられない。アレックスとの間に決定的な齟齬を見てしまった落胆は大きく、その様は言い換えれば団長がこの新人に対していかに期待をかけていたのかを痛々しく物語っていた。
ダリウスは子供たちをこそ楽しませるために手品を始め、それが高じて自らの一座を持つに至っている。そんな経歴をわざわざ口には出さずとも、彼の振る舞いや観客への接し方を見ていればその思いに気づくことは難しくない。こと演技に関しては手を抜かないことで恐れられてはいても、ダリウスが厳しいだけの人物だったならば彼の掲げた旗の元にこうも多くの人々が集いはしなかっただろう。
どんなに忙しくとも訓練生たちに勉強を教える時間を捻出し、彼らがサーカスに属することでいかなる不利益をも被らないよう気を配るのを忘れない。公演の後には全ての子供が帰路に就くまで見守るように徹底し、どうすれば彼らが最も喜んでくれるのかに日々頭を悩ませる。そんな限りない優しさが行動の端々に秘められているからこそ団員たちはダリウスを慕い、またメロディは深く愛した。それこそが彼の意志であり、この一座の色を成すものであることを1人1人が理解しているのだ。
“でも、この人は違う……!”
団長の信条を解さない者は遅かれ早かれ輪に溶け込めず浮いてしまい、いずれ一座を離れていく。それでもここまで真逆な物言いをした団員はさすがに誰もいなかっただろうが、そんなアレックスの態度にもメロディはもはや驚くことはなかった。彼は自分自身にしか興味がないという真実にたどり着いた今、これまで感じていた妙な胸騒ぎはやはり気のせいではなかったということもよくわかる。観客も、団員たちも、この手品師には賞賛を得るための道具に過ぎない。自分が独占すべき注目を他所へと向けさせてしまう彼女の存在など、アレックスにとっては邪魔以外の何物でもなかったのだろう。
「その新技はもっと練りこんでからいずれ完成度を高めて披露しても遅くはないはずだ」
「そんな、せっかく人目を引ける技があるのにこれを使わないなんて手はありませんよ! 今夜の最後に試してみるべきで――」
「アレックス」
何も言わないメロディの前で彼はいよいよ隠そうともせず最後の位置を狙っている。しかしダリウスはこれ以上の問答が無意味であることを示すようにその言葉を切ると、毅然とした態度ではっきりと告げた。
「団長は私だ、君ではない。そしてこの一座は君を引き立たせるためにあるわけではないということはぜひとも覚えておいてくれ」
「!」
それを聞いたアレックスはぐっと唇を噛み締め、忌々しげにちらりと横へ視線を送る。
「……彼女がいるからですか?」
「何だって?」
「彼女がいるから僕を最後にできないと、あなたが仰っているのはつまりそういうことですよね?」
不満のあまりに焦れた声。目障りだと言われているも同然の文句には当然憤りを感じていたが、メロディには一座の花形を務める矜持がある。彼が自らその座に相応しくない本性を露呈しているのなら、敢えて同じ場所まで降りて戦うまでもない。
「その通りだ。君はまだメロディに遠く及ばない」
騒がずとも団長は動じない、そう信じた彼女の思いが報われると同時にアレックスの目には強い憎しみが宿る。メロディは思わず1歩足を引いたが、伸ばされた手が彼女に掴みかかる方が早かった。
「君さえ……君さえいなければ!」
「あっ!?」
「君が初日に降りていれば! あんな細工までさせておいて、どうして僕の邪魔ばかり!」
「や、め……」
「やめろ! メロディから手を離せ!」
ダリウスは暴挙を目の当たりにするや否や机を一飛びし、メロディの襟首を締め上げていた手品師を力任せに引き離す。アレックスは勢い余って倒れ込んだが、団長は咳き込む彼女を庇うように抱きしめながらもその目を相手から逸らそうとはしない。
「何ということを……恥を知りたまえ!」
「はは……団長、あなたはよほど彼女が可愛いんですね。だから僕に厳しく当たるのか、それとも……」
倒れた時に切りでもしたのか、微かに血の滲んだ口元を拭ってアレックスは立ち上がる。場違いな高笑いを交えつつ、整った容貌を怒りと憎悪に歪ませながら。
「それとも僕が恐いんですか? あなたは自分よりも才能のあるこの僕に嫉妬して――」
「冗談はやめてください!」
だがそこで声を上げたのは挑発されたダリウス本人ではなかった。自分を悪し様に言われ、傷つけられるのはまだ耐えられる。しかし誰よりも愛する恋人が侮辱されるのは許せない。
「団長はあなたよりずっと優れたマジシャンです! なのに……なのに、お客さんを楽しませようという気持ちすらないあなたと一緒にするなんて!」
メロディにとって手品師とはいつも特別な存在だ。いくら高い技術を誇っていても、人前で演じるための心を持たない相手にその称号を名乗ってほしくはない。どんなに目新しい技を見せられたところでアレックスのマジックが胸に響かなかった理由はきっとそこにあり、またそれこそが彼とダリウスとの間に一線を画す決定的な違いだった。よしんばアレックスの方が難しい演技を成功させられるとしても、舞台の上に立つ人間としてはとても団長に敵わない。当代随一と呼ばれながらも絶頂期に潔く引退し、その名声を捨て去ってまで観客をより盛り上げるための道を選ぶことなどアレックスには決して真似できないだろう。
「メロディ、もういい」
そう言ったダリウスに優しく肩を支えられ、彼女はいつの間にか自分が熱い涙で頬を濡らしていたことに気づく。言いたいことなら尽きなかったが、そのどれもが声にはならなかった。
「私のことをどう思おうと構わないが、メロディに対する今しがたの言葉は聞き逃すわけにいかない。細工をしたとはどういうことだ?」
「どうもこうも、あなたならご存知のはずでしょう? 最初からステージに出なくても許される理由を作ってあげたのに、彼女もずいぶんと頑固なことで」
何の罪悪感もないその告白が衣装に隠されていた針のことを指しているのは明白で、メロディが耳を疑うよりも早く肩に置かれたままの手が震える。
「君は……そうまでして最後の演目を奪いたかったということか? 空中曲芸師であるメロディが怪我をするという意味がわかっていても?」
「でも彼女は舞台を降りなかった、大した怪我じゃなかったということでしょう。おかげでその後も手間がかかりましたよ、どれも不発だったのは予想外でしたが」
「君は自分のしたことがそれで済むと思っているのか!」
咄嗟にダリウスを見上げた彼女は涼やかなグレーの眸に一瞬激しい怒りが燃えるのを見た。彼がこんな風に声を荒げることなどまずないからこそその感情は本物で、そこに口を差し挟む余地などない。だが団長はメロディの不安げなまなざしにすぐさま冷静さを取り戻すと、日頃よりもむしろ悲しくさえ聞こえるような声で改めて奇術師に申し渡した。
「アレックス、君との契約は今この時を限りに打ち切らせてもらう。一座を私物化しようとするばかりか同僚に危害を加える者に、私の目の届くところにいてもらいたくはないのでね」