「…………」

 強すぎる快感に意識を手離したトゥーラを見やりながら、マノエルは自身の息も乱れたままに彼女の頬を撫でる。しっとりと濡れた柔肌に触れる掌から伝わる鼓動。それが語りかけてくるかのように彼ははっきり感じている……トゥーラがその身に鳥たる自分の血を引く仔を宿したことを。それが果たして人間か、あるいは鳥なのかはわからない。だが種族の異なる2人の間に新たな命が生まれたこと、それだけはなぜか本能が明確にマノエルに伝えていた。
 ――真実を明かさねばならない。彼女が自身の妊娠に気づいてからではもはや遅すぎる。恐らく普通の経過を辿らないであろうトゥーラのためにも、彼の正体を打ち明けることは絶対的に不可避だった。本来ならば交わる前に知らせねばならないことだったが、あの時の2人にはとてもそんなことはできはしなかっただろう。次にトゥーラが目を覚ませば、彼はずっと隠してきた秘密を露わにせねばならないのだ。

“……君は不気味に思うだろうか。鳥と愛し合った君自身を……”

 激しく愛を交わしたが故にぐったりと投げ出された手脚。そんな姿さえ何にも増して愛しく思わずにいられない。しかし全てを知った彼女がマノエルを自身の世界から拒絶し、その身体に宿った命さえも放棄しようとしたところで、彼にはそれを止める権利などないということが悲しかった。一方的に想われ、偶然にも愛の実を食べてしまい、不可思議な情動に囚われて抱かれてしまっただけのトゥーラ。何もかもを理解したならば騙されたと思うに違いない。この妊娠とて彼女が望んだものでないことは明らかだ。
 それなのになぜ今もトゥーラの愛が諦めきれないのだろう。その仔を共に育てていきたいと願うことは間違っていて、彼女が再び目覚めた時に夢は終わると知っているのに。

“ああ……トゥーラ、それでも私は……”

 まどろむトゥーラにマノエルは触れ合わせるだけのキスを捧げる。叶わないと思っていた願いが計らずも実を結んだ今、この先に待ち受ける絶望からは逃れられぬ身だとしても、それまでの僅かな時間だけでも彼女の肌に触れていたい。嫌われ、憎まれて顔を見ることもできなくなってしまうのなら、その瞬間がやってくるまでは愛の余韻に浸りたかった。トゥーラの髪を撫で、柔らかい頬へ、唇へ、首筋へ、そして豊かな胸へと口づける。鳥の身にはないそれらの全てが神秘的なまでに愛しく、もう1度愛を交わせたならばそれはどんなに甘美なことか……。

“君だけをずっと愛している。心から愛しているんだ、トゥーラ”

 マノエルは想いを込めて唇を番いのそれへと重ねた。もしもトゥーラも同じだけの愛で口づけを返してくれたら。彼が本当はいかなる者であるのかを知ったその後でも、この行為にマノエルと変わらぬ歓びを見出してくれたら。永遠に続く愛の歌を奏でられるのは彼女とだけだ。他の誰もトゥーラ・クオーレの代わりになど決してなれはしない。

“トゥーラ、これから私は君なしでどうやって生きていけばいい……?”

 結ばれた喜びと共に切なさがその心を締め付ける。ほんのひと時の触れ合いはあまりにも眩しく鮮やかすぎて、彼女の全てを知ってしまう前になどもう2度と戻れない。抱きしめた身体の甘く優しい香りが今はなぜか辛く、想い人の温もりに包まれた彼の目には涙が滲む。このままずっと一緒にいたい。昼も、夜も、触れられる距離でトゥーラを見つめていられたら……。

「……ぅ、ん……」
「気がついたかい、トゥーラ」
「マ、マノエル、さ……っ!?」

 紅に染まる夕暮れ時、ベッドの上で目覚めたトゥーラはマノエルに驚き身を起こす。

「身体は? 辛いところはないか?」
「身体? ――っ!」

 告げられた言葉に彼女はきょとんとしてその目を瞬いたが、2人の間に起きた出来事を思い出すなり黙り込んだ。俯いてシーツの端を掴むトゥーラの両手は震えていて、分別のある彼女が混乱していることは明らかだった。愛の実は無条件に相手を愛するようにはできていない――それを思い知らされるにあたってトゥーラの様子は十分だ。

「今更だが……君に話がある」

 僅かな希望さえも消えていく中で王はその口を開く。ゆっくりと考える時間を与えることはもうできなかった。もっと深刻に悩むべきことを伝えねばならないのだから。

「あんなことをしてすまなかった。だが君を愛していると言ったのは嘘じゃない、私の本心だ」

 愛の告白の言葉にもトゥーラは顔を上げてくれなかった。重すぎるほどの沈黙に彼は胸が張り裂けそうだったが、何も告げずにこの場を立ち去ることなど許されるはずもない。

「トゥーラ、落ち着いて聞いてほしい……君は既に仔を身籠もっている」
「えっ?」

 そこで彼女は弾かれたようにはっとマノエルへ顔を向けた。不安に怯えたその表情に彼は口を開きかけて止め、そんな顔をさせてしまった自分への悔しさで眉を寄せる。だが本当にトゥーラへ明かさなければならない秘密はまだ先だ。

「君の中には私の……私たちの仔が宿っているんだ。そして君は恐らく本来よりも早くその仔を産むだろう。だがそうするもしないも私は君の意思を尊重するつもりだ」
「どういう……こと、ですか……?」

 涙の浮かぶ眸、頼りなげに震えている細い肩。彼女が悲しみの淵で波に飲み込まれてしまいそうな時、抱きしめて慰めることのできるたった1人でありたかった。トゥーラを苦しませるあらゆるものから彼女を護りたかった。さりとてこの時トゥーラを苛んでいる相手は自分なのだ。それが彼には何よりも耐え難く惨めに思えるのだった。

「……君が身体に宿した子供は人間ではないかもしれない」
「!!」

 恐怖からか驚きからか、そう言った瞬間にトゥーラは絶句してただこちらを見つめる。ついに秘密を明かす時がやって来たことに彼は身震いし、狂ったように早鐘を打つ心臓を抑えつけこう告げた。

「突然こんなことを言われても信じられないのは当然だ。だが私は人間とは違う。君たちとは違う生き物、鳥としてこの世に生を受けた」
「やめてください!」

 それ以上何も聞きたくはないというように彼女が遮る。思わず口を噤んだマノエルの方を見ようともしないまま、トゥーラは悲嘆に暮れた様子で激しく頭を横に振った。

「どうしてそんなことを……私はあなたに責任を取ってもらいたいなんて思いません」
「トゥーラ? 私は――」
「子供ができていたとしても、あなたに迷惑はおかけしません。だから……だからそんな酷い嘘を私につかないでください……!」

 耐えきれずに泣き崩れる彼女は相手を信じられずにいる。だがそれも仕方のないことだろう。どんな種類の動物にも不思議な力を持つ王がいるが、それを持たない唯一の種族が他でもない人間なのだ。彼らだけが世に遍く広がり不可思議な力を忘れた。だからこそマノエルはトゥーラの反応に憤ることもない。

「……嘘、か」
「マノエルさ――」
「いっそそうであれば良かった。私が君と同じ種族であればこんなことは言わなかった……人間の男がするようにこうして君に触れたかったんだ」

 トゥーラの頬を止め処なく流れる涙を彼は指で拭う。

「トゥーラ、私の本当の姿を今こそ君に知ってほしい」

 マノエルはそう告げるとおもむろに彼女の前に膝をついた。そして寂しげなまなざしを傷ついた娘へと注ぎながら、彼の輪郭は次第に淡い光を帯びるように輝き……。

「……!!」

 眩しい光が消えた後にトゥーラのその目に映ったものは、黒い嘴に紅の翼を持った大きな鳥だった。