『……信じてもらえたかい、トゥーラ』

 頭の中に直接語りかけた声にトゥーラは慄くが、それは間違いなく彼女と愛を交わした相手のものだった。ずっとマノエルと呼んでいた、長く知っていたはずの男の。

『いかに私が人の形を借りられる力があるとはいえ、月が満ちた時に君が産むのは私の血を引く鳥の仔だ。卵か、雛かはわからない。あるいは人間かもしれないが――いずれにせよ君が身籠っているその仔の父親は私だ。君が今日森の中で食べただろう実は普通の果実じゃない。命を宿すその実を口にして私と交わった君には、種族の違いを超えて芽生えた命が既に息づいている』
「そんな……!」

 青褪めた顔でトゥーラは咄嗟に腹部に自身の手を当てる。何を産むのかも知り得ない、その恐ろしさは如何ばかりだろう? しかしマノエルは鋭利な刃で心が抉られる思いだった。彼女には異質の存在、それが自分だと思い知らされて。

『私はずっと君を見てきた。そして君が人間だとわかっていてもなお愛してしまった。だからこそ君と番ったが……それは私の身勝手からだ。既に起きてしまったことを取り消すことは誰にもできないが、私の仔をどうするかはまだ君の意志で選ぶことができる。もし堕ろすという選択をしても私は君を責めはしない』
「…………」
『万一……産んでもいいと言ってくれるなら私が君を護る。果樹園の仕事も君が望めば私が代わりに働くよ』

 虚ろな目をしたトゥーラには何も聞こえていないように見える。だがそれも当然の反応だ。それでもマノエルはただじっと彼女を見ていることしかできない。
 トゥーラを抱きしめる腕が欲しい。口づける時にその唇を傷つけないで済む薄い皮膚、身体の中へ挿し入れて繋がることのできる部分が欲しい。地を歩き、空を知らぬ生き物を羨む鳥がここにいる。羽根を持つ者であることに不満など1つたりともないのに、心を捧げた愛する彼女の隣にいられる時だけは、同じ種族に生まれなかったことを限りなく悔やんでしまう。
 もし同じ人間であれば、あるいはトゥーラに翼があれば。もしそうであれば彼女はこの愛を受け入れてくれただろうか? 優しく見つめてくれただろうか……彼がずっとそうしていたように。

『トゥーラ……』

 その呼びかけに返事はない。マノエルは嘴を噛み締め、床板を爪で引き掴むと一息に羽ばたき飛び上がった。

『3日後の夜にまた来る。その時に君が選んだ答えを私に聞かせてくれないか』

 最後に見るのが打ち拉がれた姿であることは辛かった。しかしトゥーラの笑顔を彼が目にすることはもはや叶わないだろう。そうしたのはマノエルであり、それは彼が甘んじて受けるべき罰の1つに過ぎなかった。

『もう私の顔も見たくなければ白い布を戸に挟んでくれ。そうすれば私はもう2度と――君の前には現れない』

 そう言うとマノエルは開かれた扉から外へと飛び去った。

“トゥーラ……トゥーラ、っ!”

 この想いを伝えたかった。種族の違いをも超えられるほど一途に愛しているのだと、どんな言葉で告げれば彼女にもわかってもらえたのだろうか。番いとして交わった者の傍を離れるのは寂しかった。酷く辛く、悲しかった。きっとトゥーラは3日後の夜に白い布を戸に挟むだろう。彼女に逢うことはもうできない……。

“自分で言ったことじゃないか。彼女が逢いたくないと思うならもうこの場所に来てはいけない。いけないんだ……”

 言葉を交わし、微笑み合い、手を握り、口づけ、愛し合う。そんな日がいつか来てほしかった。それは決して現実にはならないとわかっていたはずなのに、知ってしまったトゥーラの温もりはマノエルを苦しめ続ける。あえかな声、甘い喘ぎ。濡れた唇、上気した肌。ずっと密かに想いを寄せてきた相手と1つに結ばれる、それは想像を遥かに超えた圧倒的な幸福だった。愛の実の力があるにせよ、まるで本当に彼女に愛されているかのような交わりを、どれだけの時間が経とうとも永遠に忘れはしないだろう。彼がトゥーラと分かち合ったこの尽きない歓びと愛しさを、他の誰とも味わえないことはもう知り抜いているのだから。

「――マノエル様!」

 日没と共に巣に帰ればルカスと側近とが出迎える。集まっていた雌もおらず、住まいはすっかり静かなものだ。

「長い間お戻りになられませんので心配いたしました。木の実は――」
「ルカス」
「はい?」

 隠しておける秘密ではない。いずれにせよあと3日で全ての命運は決するのだから、真実を知らせることを迷う気持ちはマノエルにはなかった。

「私は番いを見つけた。だがそれは我らの仲間ではない」
「それは……ど、どういうことで……?」

 無意識のうちに忙しなく黄緑色の尾羽を上下させ、ルカスは本題が見えないことに困惑して王に尋ねる。

「愛の木の実を食べた雌は既に私の仔を身籠っている――相手は人間の女だが」
「……!!」
「私はもはや一族の王として相応しい器ではない。生まれてくる仔に翼があるかどうかもわからないのだからな」

 投げやりにそれだけ言い残すとマノエルは再び舞い上がった。トゥーラに別れを告げられるまではせめて彼女の近くにいたい。もうすぐ自分は帰るべき場所を失ってしまうことだろう。それならば留まりたいと願うのは愛する番いの隣だ。

「……マノエル様……」

 残された家臣たちは呆然とその姿を見送りながら、あり得ないはずの出来事をいかに理解するかに必死だった。マノエルは決して戯れにあんなことを言い出す王ではない。その彼が側近たちに自らそう口にしたということは、それが嘘偽りのない真実だということを示している。
 そう、これは事実なのだ――王は番いに地上の者、羽根のない者を選んだことは。

「木の実が落ちたのは例の果樹園の近くだったとのことだが……まさか、王の言っている人間とはレジスの娘なのでは」
「!」

 1羽がつと口にした言葉にルカスは思わず息を呑んだ。それは鳥たちの親しい友たるレジスが亡くなってから後、彼らの王のあらゆる行動に理由を与えるものだった。なぜあんなにも足繁く彼女の元へ自ら通ったのか。なぜ集まったどの雌にも興味を示すことがなかったのか。わかってしまえば簡単だ――王は既にトゥーラという人間の娘を愛していたのだ。恐らくはもう長い間、誰にもその想いを明かさずに。

“マノエル様、あなたは……”

 ルカスは力なく項垂れる。遥か昔より続いてきた王家は絶えてしまうのだろうか。生まれる子供に羽根がなければ即位をするなど論外だが、例え彼らと同じ鳥の姿でその仔が生まれたとしても、人間の女を母に持つ雛を認めることは困難だ。そもそもトゥーラはマノエルが何者かを知っていたのだろうか? そうでなければ子供が無事に生まれるかどうかさえわからない。先代の王も王妃もとうに亡くなって久しくなった今、王族の血を引く者は群れにもはやマノエルしかいなかった。だからこそ愛の実が生ったことをこんなにも祝っていたのに。

「ルカス、我々はどうすれば……?」

 自らも冷静さを欠いたままの王の従者の筆頭は、それでも不安げなまなざしを送る側近たちにこう告げる。

「このことはまだ誰にも漏らすな。マノエル様は聡明な方だ……数日もすれば戻られるはず。どちらにせよ順延された面通しの再開日は未定だ。王は喫緊の用でしばらく不在ということにしておこう」
「了解した」

 伝令のため方々へ飛び去る同僚たちを見つめながら、ルカスは王が秘めていた想いを見抜けなかったことを恥じた。