巣を後にしたマノエルが再びトゥーラの家に戻った時、辺りは既に暗く、窓からは小さな灯りが漏れていた。現実を悲観するあまり、自ら命を絶つようなことをされなかったのは幸いだ。彼は小さな虫に姿を変え静かにその窓辺に留まる。

“トゥーラ……”

 彼女はマノエルが情事の後に着せた服のまま椅子に座し、目の前の何もないテーブルの上をただじっと見つめていた。しかしトゥーラの双眸にはかつての朗らかな輝きはなく、頬には未だ乾かぬ涙の跡が幾筋も残っている。それは日頃の姿からは似ても似つかぬほどやつれた顔で、彼は自分の想いが実った代償を突きつけられていた。

“……こんなにも君を苦しませているのか、私が……”

 やはり愛してはいけなかった。どんなに抗えない力が働こうとも避けるべきだった。彼女はマノエルが触れてはならない相手なのだと知りながら、それでもトゥーラを求めた結果が彼を見たあの怯える目だ。いっそのこと死を選んでしまえればどれほど楽かわからない。彼女を愛し、その存在を生涯忘れられない以上、こんな結末を迎えてなお独り生きていくのは辛すぎる。
 だが番いの中で息づく新たな命の処遇が決まるまでは、マノエルもそれを見届けるため生き永らえねばならなかった。もしその子供がこの世に生まれ出づることのない運命なら、血を分けた父親としてその後も生きていようとは思わない。しかし、もしもトゥーラが彼の仔の母となってくれるのならば、もう2度と逢うことは叶わずとも悔いだけは残らないだろう。
 2人が確かに結ばれたことを証明する禁忌の子供――人間たるトゥーラと鳥たるマノエルの間にできた子供。

「……どうして……?」

 微かに聞こえたその声にマノエルははっと家の中を見る。トゥーラは顔を両手で覆いつつ肩を震わせて泣いていた。

「どうして、私を」

 吐息のような静かな呟きはなぜかはっきり耳に届く。唐突で理不尽な出来事に意味を探しているのだろうか。だがきっとそんなものは世界中の誰にも見つけられはしない。20年前のあの日、この森で1人と1羽が出逢った時から全ては始まっていたのだ。

“トゥーラ、私は……私はそれでも君を忘れることなど……”

 一方的で身勝手な恋。こんなにも苦しませているのにこうして逢わずにはいられない。あと2度夜の帳が落ちて約束の時が訪れるまで、マノエルは彼女の傍をひと時も離れるつもりはなかった。王として長きに渡り群れを率いて生きてきた彼は今、1羽の雄として番いの元に留まることを選んだのだ。

“マノエルさん……”

 一方、小さなランプの灯りが揺らめく静かな家の中、今朝方はまだ無垢だった娘は抑えきれず涙を流す。あまりに大きな衝撃に頭などとても働きそうにない。本能に突き動かされたような交わりを結んだことさえ、トゥーラにとっては今もまだ受け止め切れてはいないというのに。

“本当にあなたの子供が……私の中に……?”

 彼と身体を重ねた以上その確率は常に0ではない。だがあんなにも確信を持って告げられればそれはもはや予言だ。そしてもし本当に彼女が既に子を宿した身体ならば、今まで営んできた生活は根底から変わってしまう。
 しかし最も畏怖を感じたのはトゥーラ自身のことではない。

“あなたは、人ではなかったの……?”

 そんなことを考えたことは当然ながら1度もなかった。2人が1つになっている時でさえ頭に浮かびもしない。鳥に変われる人ではなく、人になれる鳥と彼は言った。それでは今まで彼女が知っていたマノエルという人物は、最初からこの世界のどこにも存在しなかったのだろうか?

“嘘よ……そんなことできるはずがないもの”

 だがトゥーラの目の前で彼は美しい鳥に姿を変えた。思わず見惚れる立派な真紅の翼を持つその生き物は、間違いなく彼女の手の届かない高い空に生きる者だ。人間には永遠に知ることのできない場所を羽ばたく者。紅い羽根で天空を飛び交うために生まれてきたその鳥は、異なる世界に生きている人間の女を愛したと言う。

『愛しているんだ、トゥーラ』

 その言葉を自分がどれほど求めて待ち望んでいたのかは、それを耳にした時に打ち震えた彼女の胸が知っていた。2人の唇がまるで引き寄せ合うように重なった瞬間、理屈などもはや何の意味もないものになったように思えた。こんなことは常識では考えられないことだと知りながら、このままマノエルに抱かれたいという思いを止められなかった。トゥーラは自らの純潔とその純真さの全てを捧げ、彼が与えてくれた大きな快楽の中で1つになった。いつも穏やかなマノエルがあんなにも情熱的に振る舞い、夢中になって求めてくれたことに彼の愛情を感じた。
 ――その後にマノエルが“正体”を明かすことさえなかったならば、例え本当に身籠もっていても怯えることはなかっただろう。

“マノエルさん、私は……”

 トゥーラは彼を愛していた。しかし衝撃的な事実を受け入れざるを得なくなった今、彼女が決断しなければならないことは遥かに重大だ。人ならざる者を愛する――違う種族の者を愛する。それはこの世の成り立ちに相反するものではないのだろうか? 異なる種族の間に新たな命は生まれるのだろうか? もしそうだとして鳥の仔を……人の身で卵を産むことは許されていいことなのだろうか?
 いつの日か誰かと愛し合い子を産むこともあるかもしれない、トゥーラもまたそんな人生を心に思い描き生きてきた。だが全てがこうも突然に、驚嘆すべき出来事と共に起こるとは誰が思うだろう。

「どうして……」

 何度考えを巡らせようと出てくる言葉は1つだけだ。なぜ彼は、マノエルはトゥーラを愛するに至ったのだろうか。まだ彼女が幼い頃から市場に姿を見せてはいたが、義父が亡くなってからこの場所までやって来てくれていたことに、彼は単に果実を買う以上の意味を込めていたのだろうか。これまでマノエルがかけてくれた優しい言葉の端々には、口にはできぬトゥーラへの想いが忍ばされていたのだろうか……今日までずっと。

『3日後の夜にまた来る。その時に君が選んだ答えを私に聞かせてくれないか』

 この問題の答えなど時間があろうと見つかるものではない。それでもトゥーラは芽生えた命を無視することはできなかった。選ばなければならないのだ。産むのか、それとも――。

“マノエルさんと私の……私たちの間にできた子供”

 愛し合い、求め合った結果2人に授かったこの命。だが何を産むかもわからない恐ろしさは身体が震えるほどだ。自分が禁忌を犯したこと、この世の理を外れたことを思い知ることになるだろう。いかにマノエルが彼女へ手助けを申し出てくれたところで、どうやって彼と接すればいいかも今のトゥーラにはわからない。愛した相手が本当は違う姿形をしていたこと、それをまだ信じられない、信じたくない思いが大きかった。では自分は一体マノエルの何を見て愛していたのだろうか……。

“……私はどうすればいいの……?”

 しかしそんな時でも抱きしめてほしい腕は彼のものだった。慰めの言葉を聞かせてほしい声もまたマノエルのものだ。産むにせよ、産まないにせよ、どちらを選んでも後悔しない道というものはないだろう。だからこそ彼女は約束の3日後の夜がやって来た時、もう1度マノエルに逢うことで迷いを振り切ろうと思った。どうして彼は人間を、トゥーラをその番いに選んだのか。それを問われたマノエルがどんな答えを口にするかによって、自身と子供が辿る運命を自ら決断するために。