3日間は双方にとって果てしなく長く感じられた。既にトゥーラの身体には妊娠の兆候が現れており、心労からくるものとは思えない不可思議な怠さや疲れ、つわりのような吐き気が事実を端的に彼女に突きつける。外に出て仕事をしようとしても酷い目眩で立ち上がれず、トゥーラは多くの時間をベッドで過ごさなくてはならなかった。彼女はこれが紛れもない現実であることを受け入れつつ、隠しきれない不安と恐れに涙を零さずにいられない。
 そんなトゥーラの姿に激しい心の痛みを感じながら、マノエルは飲まず食わずのまま彼女を静かに見守っていた。どんなに駆け寄ってこの手を差し伸べその身を抱きしめたくとも、当のトゥーラがそんなことを彼に望んでくれはしないだろう。
 だが3日目の夕暮れ時になっても戸口に布は掲げられず、マノエルの胸にはほんの僅かな希望という名の火が灯る。それでは彼女は逢ってもいいと思ってくれているのだろうか。例えどんな結論をトゥーラから聞かされることになろうとも、話さえしたくないと思われるよりはその方がまだましだ。
 長年見知った相手と不可抗力によって交わりを持ち、突然の懐妊に加えて鳥という正体を明かされる。それがどれほど彼女を傷つけたのかは想像するまでもない。始めからトゥーラの心を得ることはできないと知っていたが、今ではそんな戯言は願うことも許されはしないだろう。マノエルは行き場のない愛を抱えたまま孤独の中で死ぬ。しかしそれでも彼は想い人に触れたことを悔やみはしない……。

「トゥーラ、入ってもいいか?」

 夜空に散らばる数多の星が十分に輝き出した頃、マノエルは人の姿に変わり閉ざされている扉を叩く。やや遅れてか細く聞こえた返事は了承の意思を示し、彼は緊張に幾分震える手を叱咤して戸を開いた。蝋燭の炎に照らし出されたトゥーラの腰かけた姿は、改めて眺めればやつれたのか細くなったようにも見える。だが彼女が立ち上がるとその腹部は微かな丸みを帯びていて、窓辺から見ているだけではわからない変化が表れていた。

“早い……思ったよりもずっと”

 マノエルの種族は1ヶ月の抱卵を経て雛が孵るが、この様子ではそれとほぼ同じ期間で仔が産まれるのだろう。もはやトゥーラが卵を産むということは恐らくないだろうが、人間がこんな早さで成長するということもあり得ない。2人が父で、母であるということだけがわかっていながら、子供がどんな姿をしているのかは全くわからぬままだ。それを恐れずにいられる者などこの世のどこにいるだろうか? トゥーラが憔悴しきっているのも無理からぬ当然のことだ。

「約束の時間だ。トゥーラ、君の考えを聞かせてほしい」

 マノエルは掠れた声でそう尋ねるのが精一杯だった。心の中を埋め尽くす考えはどれも悪いものばかりで、身体中の骨が軋んで悲鳴を上げているような気がする。おかしな汗が滲み、手足の震えを抑えられそうにない。

「その前に、マノエルさんに1つだけお尋ねしたいことがあります」
「……私に?」

 静かな声でそう告げたトゥーラにマノエルは意表を突かれる。2人の仔が息づく場所の上に彼女は両手を重ねると、淡い緑の眸を真っ直ぐにこちらに向け口を開いた。

「なぜあなたは……私を伴侶として愛することができるのですか。私が違う生き物なことは最初からわかっていたはずです」
「!」

 それは思いもよらない問いだったが、ある意味核心を突いたものだ。マノエルは何と答えるべきかを理性の限り考えたが、全てを解決できる魔法の言葉など見つかるはずもない。だが答えないという選択などこの場においてはあり得なかった。なぜトゥーラを妻に求めたのか、それは深く愛していたからだ。そして今でもずっと愛している……。

「……本当に誰かに惹かれる時、そこに理由なんて必要ない」

 それは彼女の欲した答えでは必ずしもなかっただろう。しかし彼は最後に胸の内を全て打ち明けておきたかった。あの時、本能に負ける前に伝えたかった真摯な想いを。

「どうして君を愛したのか、それはきっと私にもわからない。だが君でなければだめなんだ。トゥーラ、君でなければ――」
「でもあなたは人ではないんでしょう? 私があなたとは違うように」

 遮るようにそう言ったトゥーラの眸には悲しみがあった。聞く者が胸を打たれずにはいられないほどの深い悲しみ。それは彼女がこの3日間眠れぬほど苦悩した証だ。何度もそれを思い、その度に1羽と1人を隔てるあらゆる壁の存在に苦しんだ。本来ならば惹かれ合うなど夢にも思わぬ間の者を、どうすれば同じ種族のように愛することができるのだろう……? それは同じ生き物同士に生まれていれば無縁の悩みだ。

「あなたはまた仲間に卵を産んでもらうことだってできます。私でなければいけないなんて――」
「それは違う!」

 はっとその目を見開いたトゥーラにマノエルは唇を噛むが、彼女が重大な思い違いをしていることは見逃せない。彼の愛が真実であるということを知ってもらうためにも、その点だけはどうしても自ら訂正せねばならなかった。

「君と番った私はもう生涯他の誰とも交わらない。我々の種族にとって番いの相手とは神聖なものだ。例え君が私から離れても代わりなどどこにもいないよ」
「……え……?」
「それがわかっていても私は君を抱かずにはいられなかった。君のためなら残りの命など捨てても惜しくなかったんだ……トゥーラ、君を愛していたから」

 どちらかが命を落としても新たな番いを作ることはない、それはマノエルの種族が生まれ持つ特別な性質だった。純粋な愛によって成される目には見えない絆は強く、1度でも交わりを結んだ2羽は一生に渡って番う。そこに例外は1つもない。

「我々は同じ種族の中から番いとなる相手を選び、愛の歓びを分かち合っては血を継ぐ卵を設けてきた。昔は私も漠然とそうやって生きると思っていたが、私は君と出逢ってしまった。何百年も続いてきた営みを外れようと構わない、生まれついた性分に逆らっても傍にいたいほど惹かれた。木の実の力がなければ君が孕むこともなかっただろうが、それでも君と愛し合うことを私はずっと夢に見てきた」

 触れたのは愛していたからだ。抱いたのは、求めたのは、それが彼の悲願だったからだ。歴史に残る名君として仲間から尊敬される王が、かけがえのない相手として求めたのは陸の生き物だった。その想いを周りに認めてもらいたいなどとは思わないが、芽生えてしまった感情を覆すことは誰にもできない。1度でも堰を切ってあふれてしまった愛を止めることなど、もはやマノエル自身にも到底不可能でしかないのだから。

「君が私を受け入れられなくてもそれは仕方のないことだ。だが私が君を愛しく思ってしまうことだけは許してくれ。属する世界が違おうと、誰が何を声高に言おうと、私が心からの愛を捧げる相手は君1人だけだ。トゥーラ、永遠に君1人だ」

 トゥーラは彼を見つめながら黙ってその告白を聞いていた。例え彼女が拒もうとこの愛は他の誰のものでもない。マノエルにとってたった1人の運命で導かれた相手、それが翼を持たない人間の娘たるトゥーラだったのだ。

「……わかりました」

 しばしの後、静かな囁きが重苦しい沈黙を破る。別れの言葉を覚悟した彼は生きた心地がしなかったが、トゥーラの口から告げられた言葉は全く予想外だった。

「私はこの仔を産みます――あなたの、マノエルさんの子供を」