「マ……マノエル様!」

 その翌日、太陽が天の頂きに差しかかろうという時間。住処に再び姿を現した王にルカスは安堵した。間もなく戻ってくるはずだと周囲を諭したのは彼だったが、その言葉に必ずしも揺らがぬ自信があったわけではない。だからこそこうして紅い影を迎えられる喜びは大きく、この数日の不安さえも消えてなくなるかのように思えた。

「不在にしてすまなかったな。変わりはないか?」
「はい。皆何事もなく」
「そうか……それなら丁度いい」
「?」

 遠くを見つめるマノエルに何か違う気配を覚えつつも、忠実な側近であるルカスは王の言葉を待つばかりだ。

「私は、トゥーラと番った」

 その事実は家臣の想像と寸分違わぬものだったが、改めて明かされたそれは重すぎる意味を言外に含む。

「彼女を心から愛している……そしてトゥーラも同じだと言ってくれた。この鳥の姿を見た後でも」
「……!!」

 ルカスは一言も声を上げられないままただマノエルを見た。例え種族としての性質に逆らわねばならないとしても、きっと王はトゥーラと別れてくれるはずだと願っていたのだ。

「彼女は仔を身籠っている。そんなことは本来あり得ないが、愛の実には種族の隔たりをも超える力があるようだな」
「マノエル様、しかし」
「あとひと月も経たないうちにトゥーラは私との仔を産むだろう。だがその子供を皆が受け入れられるとまでは私も思わない――そこでだ」

 いつもと同じ落ち着いた声は微かな悲嘆を纏っている。それはマノエルが既に心を決めていることを伝えていた。

「ルカス、私はお前に王として群れを率いてもらいたい。お前ならば反対する者は一族に誰もいないはずだ」
「そんな……何ということを!」

 王の座は代々その血統に従って譲渡されてきた。それをこんな形で引き継ぐことなどルカスにはとてもできない。

「マノエル様、お待ちください。それはあまりにも――」
「ルカス」

 黄金色の双眸が臣下の筆頭たるその身を捉え、反論を唱えようとしていたルカスは思わず口を噤む。だが狼狽する彼を申し訳なさそうに王は見つめながらも、決定的な言葉を口にすることに躊躇は見せなかった。

「私はトゥーラと共に生きる。今日はそれを伝えるために来た。今も彼女はあの家で私が帰ってくるのを待っている」

 マノエルは巣に“来た”と言った。そしてトゥーラの元に“帰る”とも。彼は自身の帰るべき場所がもうここではないと告げている。
 皆の模範で在らねばならないはずの王が人間と番い、あまつさえ羽根を持たない陸の者の血が混じった仔を成した。それは側近中の側近しか知らない極秘中の秘事だ。自ら餌場を探索し、群れの者に何でも分け与え、敵からも身を呈して仲間を護ってくれた偉大なる王。マノエルという名君の傍に仕えることは喜びだった。臣下の中で誰よりも信頼されていると自負してもいた。しかしその王は今、人間の娘との禁忌の恋の果て、ルカスたちと袂を分かち永遠にここを去ろうとしている。

「あなたは……我々をお見捨てになるのですか、マノエル様……」

 愛し合い結ばれた番いの絆がいかに強いものなのか、それは同じ種族の者として当然ながら承知の上だ。それでもこんな風に王を群れから奪い去っていくトゥーラを、全ての責任と仲間を捨てて彼女を選んだマノエルを、腹心の部下として支えてきたルカスは認められはしない。
 マノエルは群れの者全てにとってかけがえのない王だった。思慮深く、どんな時も正しい道へと導いてくれる王。窮地にあっても仲間の心を鼓舞し奮い立たせてくれる、そんな王に背を向けられた恨み言がつい嘴に上る。
 相手が同じ種族であればこんな悲劇など起こらなかった。愛の木の実が生ったことを伝えた日の喜びは束の間で、一族の繁栄の夢はあまりにも唐突に消えてしまう。だからこそルカスはマノエルに憤らずにはいられないのだ――どうして違う世界に生きる者をそんなにも愛したのかと。

「……お前の口からそう言われれば私は返す言葉もないな」

 白い雲が流れていく空を仰ぎ、王は静かに呟く。

「長い間世話になった。これからは……私の代わりに仲間を護ってやってくれ」
「マノエル様っ!」

 どんな言葉を尽くしてもこの決断は理解されないだろう。それがわかっているからこそマノエルはルカスにそう言い残し、風のような速さで舞い上がると番いの元へ飛んで行った。その後を追ってくる者はただの1羽たりともいなかったが、もしいたところで彼に追いつける者は誰もいなかっただろう。

「……マノエル?」

 果実を選別していたトゥーラは聞こえた羽音に顔を上げ、紅い鳥は地に降り立つや否や人間の男へと変わる。

「遅くなったかな、すまない」
「いいえ!」

 マノエルは自身が王であることを彼女には話さなかった。トゥーラをこれ以上自分のことで悩ませたくはなかったのだ。ただでさえ人と鳥という身で許されぬ恋をしているのに、自分が犯した罪を彼女にも背負わせたいとは思わない。自身を慕い尽くしてくれた臣下に合わせる顔などないし、彼の選択は裏切りと呼ばれて然るべきものなのだろう。それでもこうして腕を伸ばし抱きしめてくれる温もりよりも、優先させるべきことなどマノエルにはもはや何もなかった。呆気なく手離した仲間たちへの責任の代償として、彼が唯一できたことは側近に後を託すことだけだ。
 例えその子供が空を飛ぶための翼を持っていたところで、トゥーラが産むマノエルの仔を王と認めぬ者は多いだろう。最も貴い王の血に、空を知らぬ者の血が混じるのだ。前代未聞の事態を受け入れろと迫ることはできないが、愛する番いの存在を批難されることもまた耐えられない。彼女を護るためにはマノエルが王であってはならなかった。一介の取るに足らないその他大勢の1羽であってこそ、彼は初めて自分の意思でトゥーラの傍にいることができる。陸の者と絆を結び、その傍らに休む者が王を名乗ることなどできはしない。

「大丈夫でしたか……?」

 深い口づけを終えた後、マノエルの腕の中で彼女はどこか不安げにそう尋ねる。

「ああ、何も心配ないよ」

 嘘をつくのは苦手だったが、少しでも安心させたかった。今の彼にとって何よりも大切なのはトゥーラと子供だ。

「それより子供の名前を考えよう。決める頃にはきっともう生まれるはずだよ、君と私の……2人の子供が」

 人間と鳥の家族。だが夫の言葉を妻が理解できなくなる日はそう遠くない。王たる資格を失えば、その身に宿る力もまた消える。仲間を捨てたマノエルはじきに話すことさえもできなくなり、ただの鳥としてトゥーラと共に残りの生を生きていくのだ。どんなに愛を歌っても彼女にはもうその声も伝わらず、こうして抱き合い唇を交わすことなど2度とできなくなる。それでもマノエルは愛し合えるただ1人の傍を離れない……運命の恋で結ばれた愛しい番いたるトゥーラの傍を。

「気が早すぎますよ、マノエル」
「そうかな? そんなことはないさ。早く子供に会いたいと思っているのはその通りなんだが……私はそれと同じくらい君と2人の時間も過ごしたい」

 それを聞いて微笑んだ彼女から甘い口づけが贈られる。抱き合う2人の影は1つになり、愛の言葉は途切れない。

「トゥーラ……君が好きだ。本当に好きなんだ、たまらなく愛しい」
「ありがとう、マノエル。私もあなたのことを……ずっと、どんな姿でもあなたを愛しています」

 その日から果樹園に彼の仲間が訪れることはなかった。