それからの2週間、2人は仲睦まじい時間を過ごした。大きくなったトゥーラの腹部は人の妊婦と何ら変わらず、もう少しすれば子供の胎動さえ感じられることだろう。マノエルは時に人となり、また時に鳥へと戻りながら、愛の証を宿した彼女の傍に毎日寄り添っていた。
 あの別れから先、元の仲間をここで見かけることはなく、賑やかだった果樹園の端も今やすっかり静かなものだ。あれほど彼らが好んでいたトゥーラの果実を諦めるほど、恋に狂ったかつての王の姿は忌まわしいに違いない。群れの者たちが彼女やその仔を害することはないだろうが、この場所はもはや彼らにとって忘れ去りたいものなのだろう。

「トゥーラ!」

 果樹園の中を一回りして飛んで戻ってきたマノエルは、外で洗濯をするトゥーラを見て慌てて傍へと駆けつけた。枝を掴む爪は足となり、紅い翼は伸ばされた腕となって彼女をぎゅっと抱きしめる。

「マノエル」
「私が帰るまでは家で待っていてほしいと言ったじゃないか。こんな重いものを持って歩いてもし転んだらどうするんだ?」

 トゥーラ自身はつわりのせいもあり徐々に細くなっていくのに、子供が育っている場所だけは日に日にはっきり膨れていく。その成長の早さは卵の中の雛と等しいものだが、腹部の大きさを見る限り人間であるとしか思えない。一体どんな姿をした仔がここに息づいているのだろう……種族を超えて愛し合った結果に生まれてくる命として。

「それに洗濯ならこれからは私がすると昨日も言っただろう」

 マノエルにはさほど重くもない桶を取り上げて気色ばむと、トゥーラは苦笑しながらも愛しげなまなざしを彼へと向けた。

「あなたが本当はどんな姿をしているのかを知っていたら、そんなことを頼もうなんて思える人はどこにもいませんよ」
「そんなことを言っていられるのも今のうちだけだと言っただろう? もうすぐ私はこの姿ではいられなくなってしまうんだよ。話もできず羽根を広げて鳴くことしかできなくなる前に、君のためにできることはどんな小さなことでもしておきたい」

 マノエルがこうして人間の姿に変わることができるのは、特別な力のおかげだということだけは伝えられていた。そしてそれはもはやそう長くは保たない力だということも。
 この事実を彼女の前で自ら話すのは恐ろしかった。トゥーラが愛してくれたのは仮初めの姿なのかもしれない、その恐怖は共に暮らしても決して消えはしなかったからだ。だがそれを聞いた彼女は黙ったままマノエルの手をそっと握り、優しい微笑みを浮かべながらその甲を撫でて言ったものだ――“こんなに美しい姿をあなたが毎日見せてくれるなら、それだけで私はきっとまたあなたを好きになってしまいます”と。
 いずれ言葉も通じなくなってしまう運命が待っていても、トゥーラは唯一の存在に鳥である彼を選んでくれる。彼女がその愛を捧げ生涯を共にしたい相手として、同じ人間の男ではなくマノエルを望んでくれたのだ……。

「その時がいつ来ても、あなたといられればそれだけでいいんです。あなたと子供と一緒に暮らせることが幸せなんですから」
「トゥーラ……」
「でも今日のお洗濯はお願いしてもいいですか? 少し……目眩が、して」
「!」

 最後まで言い終わる前にトゥーラの足元がふわりと揺らぎ、間一髪抱き留めたマノエルの足元に木の桶が落ちる。外の気温のせいだけではない熱がその肌からも伝わり、苦しむ番いの様子に彼は歯痒い思いで眉を寄せた。

“だいぶ消耗している……無理もない”

 ただでさえ自らの血肉を分け与えて育てている我が子、それがこんなにも早く成長していれば負担も相当だ。

「……トゥーラ……」

 マノエルは愛しい番いを抱きしめて切なげにその名を呼ぶ。額に大粒の汗をかいたトゥーラは彼を見上げはしたが、すぐに目を伏せて申し訳なさそうに謝罪の言葉を告げた。

「ご、めんな、さい。私――」
「いいんだ、少し休もう。ちょうど今朝集めた実も冷えた頃だ」

 果樹園の実には適度な酸味と甘みがあり喉越しも良く、食欲が極端に落ちた彼女でもこれだけは口にできる。マノエルは拾った果実をさらにトゥーラが食べやすくなるよう、袋に入れて川岸に吊るし冷やすことを日課にしていた。

「すぐ戻る。君はちゃんとここで横になって待っているんだよ」
「マノエル……ありがとう」

 そのまま家に戻った彼は寝台の上に番いを下ろし、艶やかな黒蜜色の髪に口づけを落とすと家を出た。こんなにも衰弱しながら、それでもマノエルの仔を宿し続けてくれる人間の娘。運命を共にすると決めてくれたその想いに報いるため、彼は自分の全てをトゥーラに捧げることを迷わなかった。別れ際のルカスの言葉、傷ついた目を思い出す度に深い悲しみが蘇るが、彼女を護ることができるのはその夫たる者しかいない。仲間を率いるに値する優秀な者は他にもいるが、トゥーラの産む子供の父親はこの世にマノエルただ1羽だ。

「……?」

 多種多様な生き物が住まう慣れた森の中を歩きながら、彼は辺りが妙に静まり返っていることにやっと気づく。川に着き、姿を変えて水に潜っても魚は見えない。

“妙だな……”

 時折見かける小動物さえ注意深く木陰を選び、いつもならやかましいほどに叫ぶ猿たちの声も聞こえない。しかし川の水に浸けておいた果実の袋を持ち帰る道すがら、マノエルは遺伝子に刷り込まれた畏れからはっと空を見た。

「……!」

 空を滑る不気味な黒い影。頭の後ろに特徴的な羽毛を持ったその大鷲は、魚や鼠は疎か、マノエルたちの種族をも捕らえ餌として貪る脅威の生き物だ。見つかればまず助からぬからこそ森はかくも静寂に満ち、生命の危機に敏感な者は暗所で息を殺している。
 その鳥はすぐにより遠くへと旋回しつつ飛んで行ったが、そちらを見やったマノエルはそれがかつての仲間たちの巣の方角であるということに気づいた。ここまで森の中が異様ならば当然ながらルカスたちもこの気配には気づいているはずだ。少なくともあの獰猛な狩鳥かりうどがここを去るまでの間、それぞれが安全な場所でその身を隠しているに違いない。
 だが、もしも――。

“何を考えているんだ。そんなはずがない、皆を信じろ。信じるんだ……!”

 彼の帰りをトゥーラが待っている。すぐに戻るとそう約束した。しかし仲間たちが万が一にも飢えた鷲の襲撃を受けたなら。自らを慕い尊敬してくれていたたくさんの者たちが、絶対に凶悪な鉤爪の餌食にならぬとは言い切れない。そんなことがもしあればマノエルは自分を許せなくなるだろう。捕らわれ、もがいた仲間の羽根が青い空へと散っていく様、血に濡れた大鷲の爪が肉に食い込む様が思い浮かび、悲痛な叫びの幻が今にも聞こえてきそうな気がする。

“……すまない、トゥーラ”

 一息に姿を変えて舞い上がったマノエルのいた場所には、冷たい果実で満たされた袋が軽い音を立てて落ちた。彼自身も敵に見つからぬよう常に注意を払いながら、できる限り目の届きにくい低い場所を選んで飛んで行く。杞憂ならばそれでよかった。群れを捨てた裏切り者が臆病にも様子を見に戻った、そう嘲笑されるだけで済むならどんな謗りにも耐えられる。

「!!」

 だがマノエルがかつて自らの巣と呼んでいた場所へ至った時、辺りに響き渡ったのは鼓膜を劈く襲撃の声だ。そして色鮮やかな仲間たちが一斉に空へと逃げ惑うのを、憂いに満ちた黄金色の眸は残酷に映していた。