「――ルカス、敵だ!」
「何だって!?」

 その時、住処に響いた第一声は恐怖の叫びだった。顔を上げたルカスが敵の黒い影を空に認めた瞬間、相手は群れの中央を切り裂いて急襲をかけてきたのだ。

「逃げろ!」

 あちらこちらで緑や黄色の羽根が何枚も飛び散る中、黒ずんだ灰色の影は動きの遅い者を狙っていた。大鷲の暗い瞳孔は獲物の弱みを見逃しはしない。

「避けろ、アリシア!」

 巣立ったばかりでまだ上手く飛び立てない若い雌鳥めがけ、襲撃者の血塗られた鉤爪が命を刈り取ろうと開く。駆けつけたくとも、間に合わない。目の前で仲間が今まさに命を落とそうとしているのに、見ていることしかできないその無力さにルカスは絶望する。

“マノエル様……!”

 もしここに彼がいたならどんな行動をとっていただろうか。そもそも、敵の接近を許すことなど決してなかっただろう。ルカスは代わりにはなれない。誰も後を継ぐことなどできない――マノエルの、あんなにも望まれた素晴らしい王の後など。

「……!!」

 だが哀れな雌がその身を真っ二つに引き裂かれようとした時、彼らの目の前に突如覚えのある紅い羽根が翻る。あり得ないはずのそれに驚愕し見開かれたルカスの目には、不意打ちを受けて吹き飛ばされる侵入者の姿とは別に、群れを離れ鳥としての生き方を捨てた者が映っていた。

「マ……マノエル様!」

 捕食者と群れの間に忽然と立ちはだかるかつての王、忘れもしないその者の名前をルカスは我知らず叫んだ。敵はすぐに体勢を立て直し再び襲ってくるだろう。それでも初撃を挫いて稼いだ時間はあまりにも大きい。

「ルカス、皆を逃がすんだ。できるだけ遠くに離れていろ」
「は、はい!」
「ここは私が引き受ける。行け!」

 命令されるがままに飛び立ったルカスは仲間たちを率い、できるだけこの場から離れて姿を隠すように指示を出す。怒りのあまり凶暴さを増した敵の罵りが聞こえるが、彼とてまた振り返れるほどの余裕は残ってはいなかった。

「洞窟の中に隠れろ。すぐに見つからなければ木の陰でいい!」

 見渡す限りの仲間たちが方々へ散ったのを確認し、ルカスは他の何羽かと共に深い木のうろに身を潜める。

「マノエル様が来てくださった……」
「やっぱりあの方は私たちを見捨ててなんていなかったんだ。マノエル様ともあろうお方がそんなことをなさるはずがない」

 暗く狭い空間で安堵のあまりに啜り泣く仲間たち。ルカスは嘴を噛みしめて何も言わずに1羽黙り込む。トゥーラのために生きるとマノエルははっきりと告げたというのに、なぜ彼は捨てたはずの群れの元へ今更やって来たのだろう。こんな風に多くの者がルカスの元に集まっていたのも、元はといえば不自然に長い王の不在を不審に思う者が納得のいく説明を求めて詰めかけたからだというのに。
 だがアリシアが大鷲の餌食になろうとしていたまさにその時、ルカス自身が心の中で叫んだ名は王の名前だった。他の誰もがそうしたように、常に彼らを率いてくれたマノエルに助けを求めたのだ。

“マノエル様……あなたは、なぜ”

 自分たちを見捨てたならもうここに戻ってほしくはなかった。来てくれたのならこれまでのように暮らせると期待してしまう。もう1度王として群れを導いてくれると夢見てしまう――彼は異なる種族の者と生きる道を選んだはずなのに。
 トゥーラの名を明かされる前は荒れているだけだと思っていた。だからこそ再び戻ってきた王をルカスが迎えた日には、全てがまた元の通り穏やかに続くものと信じていた。しかしマノエルはそんな思いを裏切るように彼へと別れを告げ、混乱し狼狽えるルカスを振り返りもせずに去って行った。あの日、彼は深い落胆と共に怒りを覚えたものだ。王として仰いだただ1羽の者から無慈悲な仕打ちを受け、何もかもを投げ出された彼がそう思ったのは当然だろう。マノエルを王の中の王として誇り仕えていたからこそ、それらの全てをあっさりと切り捨てられたことが虚しかった。
 せめて一言トゥーラに惹かれていると打ち明けてくれていたら。だがもし仮にそうであったところで賛成など誰ができるだろう? 同じ種族の中でさえ身分の高低は存在するのに、異なる種族、まして人間など王妃に迎えられるはずもない。それ故に王は誰にもその心を明かしはしなかったのだ。本当に愛していたからこそ、側近のルカスにさえ話さず。

「それにしても遅いな……マノエル様はご無事だろうか」
「大丈夫、マノエル様よ? いつだってお戻りになったじゃない」
「そうか……そうだな。あの方はどんな時も必ず我らの前に帰ってくださるお方だ」

 ひそひそと囁かれる言葉にルカスは不意に我に返った。今は王の無事を神に祈り彼の戻りを待つべき時だ。まだ受け入れられぬこととはいえ、マノエルは番いと仔まで成した。五体満足に家族の元へ帰る思いは同じなはずだ。
 群れのことなど忘れ、妻の傍に留まることもできただろう。しかし王は敵の姿を察知するやかつての巣へと戻ってきた。仲間たちが恐怖に包まれた絶体絶命の瞬間に、自らの身の危険も顧みず彼はここに現れたのだ。

“マノエル様……”

 それが単なる感傷ではないことをルカスはよく知っている。それこそマノエルが王として尊敬されていた所以なのだ。どんな者たちにも思いを馳せ、傷ついた者や老いた者、幼き者の安全に気を配る。どの番いの間に何羽の雛が新たに生まれたかを知り、卵を産もうとしている者には良い住処を当てがってやる。王のために捧げられたものでさえ臣下たちへと分け与え、仲間の要望に応えるために姿を変え心を砕き、ひいては他の種族からさえも敬われていたその姿を、最も近くで見てきた者こそまさにルカスだったのだから。
 仲間を捨てて出て行ったマノエルはもはや群れの王ではない。だが彼以上に望み得る指導者も世界中のどこにもいない。例え禁忌を犯していようと、マノエル以上に王としてその座に相応しい者など、誰も。

「マノエル様……どうかご無事で」

 王なら必ず生き延びる――いつも彼がそうしていたように。しかしどんなにそう信じていても、ルカスは思わず声に出してそう願わずにはいられなかった。

「……ほう。お前がこの群れの王か、赤羽根」

 ――その頃、空の上では灰色の大鷲がそう尋ねていた。緩やかに螺旋を描く軌道はひとたび狙いを定めれば一直線に心臓を貫く。

「今すぐにここから立ち去れ。仲間を狙うことは許さない」

 どんな攻撃も躱せるだけの距離を取りつつ王は答えた。その間もマノエルの金の目は敵から離されることはない。

「は! ずいぶんと強気だな。別に仲間を喰わなかろうと、お前自身が餌になってくれれば俺はそれでもいいんだが?」
「断る」

 充分に時間は稼いだ。あとはこの危険すぎる猛禽を遠くへと追い払うだけだ。だがそれこそが最も難しいことをマノエルは理解している。彼は狩りで生きる鳥ではない。敵の身体に突き刺さる爪も、肉を引き裂き齧るための鋭利な嘴も持ってはいない。相手にとってマノエルは餌だ。1度でも捕らえられれば生きたまま肉を喰われることだろう。

“そんなことはさせない。私はトゥーラの元へ戻らなければ”

 愛する番いは今もあの家で彼が戻るのを待っている。生まれ出づる新しい命にもきっと父親は必要だ。2人を残し自らの意思で危険な場所へ出向いた以上、マノエルは必ず生きて果樹園へと帰らねばならなかった。