それから更に7日の時が過ぎ、マノエルは通常の生活ができるほどまでに回復した。野に生きる者の生命力は人間たちのそれとは違い、自分自身を癒す力が比べ物にならないほど強い。彼が人の姿になってトゥーラの身を抱きしめてくれる度、傷が少なくなっていくのを見るのは何とも安心できる。
 マノエルはあれから仲間たちのところへ戻ることはなかった。怪我が癒えたのはやっとここ数日であることを差し引いても、既に群れはいつもの生活に戻ったと思っているのだろう。それに彼は必要以上に仲間の元を訪れることを、できる限り避けたいと願っているようにトゥーラには思えた。

「トゥーラ、少しは休めたかい?」

 揺り椅子でまどろんでいた彼女はその声を聞くと立ち上がり、愛しい夫の首に腕を回しながら帰りを出迎える。洗濯物を干した彼からは太陽の匂いが立ち昇り、幸せな温かさにトゥーラはそっと頬を寄せてキスをした。

「はい、あなたのおかげで。この子は相変わらず元気ですが、朝よりは少しだけいい子でおとなしくしていてくれました」
「そうか……いい子だ。母親を大切にできる優しい子になるはずだよ、きっと」

 眩しそうな笑顔を浮かべマノエルは彼女の腹部へ触れる。数日前から2人の子供は胎動もわかるようになり、彼の手にも力強い反応が伝わっていることだろう。その動きからして仔に羽毛があるとはもう思えなかったが、実際に生まれる時まで確かなことなど何もわからない。わかっているのはただ1つ、その子供が愛し合う両親の下に生まれてくることだけだ。

「……あと1週間。あるいは……もう少し早くなるかもしれない」

 トゥーラはほのかな緊張を孕んだ彼の声に顔を上げる。

「君は恐くはないかい? 2人だけでその時に臨むのは」

 彼女にはマノエルの方がよほど恐がっているように見えた。しかし彼が雄であることを鑑みればその気持ちも理解できる。卵を産んだこともなければ仔を宿すこともないマノエルが、人間の出産という未知の経験に不安を覚えても、それはある意味でとても自然な感情のように思えたのだ。
 それはまたトゥーラにとっても同じ未体験のものではあるが、心構えという点で見ればやはり母親には敵わない。たった3週間だったが、若い娘が母に変わるまでには十分な時間が過ぎた。育ての親を亡くし、たった独りで生きていた彼女は今、傍らに心を通わせる者がいる幸福を知っている。

「ふふ、ずいぶんと恐がりですね。その時が来たらあなたは外に出てもらった方がいいですか?」
「トゥーラ……!」

 慌てた様子のマノエルにトゥーラはくすくすと微笑みながら、広げた両手で膨らんだ自身の腹部を愛しげに撫でた。

「何も恐くなんてありません。私はあなたと結ばれて、子供を授かっただけなんですから」

 1羽と1人は初めての、いかなる者も知らぬ瞬間をもうすぐ迎えようとしている。異なる種族の間に芽生えた命を生む未踏の行為。鳥は胎内で育ちはせず、人はこんなにも早く生まれはしない。種族を超えて愛し合った結果を2人は知ろうとしていた。
 一体どんな姿の子供がこの世界に生まれ落ちるのか、それを不安に思ったことなどないとは嘘でも言えはしない。トゥーラとて妊娠をマノエルから告げられた時は恐ろしく、いっそ堕ろしてしまった方がいいのかと悩むことさえあった。だが彼の限りない愛に触れ、自身の想いを確かめた末、彼女はマノエルの種で宿った仔を産む覚悟を決めたのだ。その決断にもはや迷いはない。

「トゥーラ、君は強いな。昔から芯の強いところは知っているつもりだったんだが……こうして君の傍にいると、私はまだ君のことを何も知らなかったと実感するよ」
「……あなたが思っていた私と、今の私は違っていますか?」

 しみじみと言われた彼の言葉にトゥーラは思わずそう呟く。それに微かに驚いたように金色の目を丸くしながら、マノエルは腕を伸ばすと彼女を抱きしめて耳元で言った。

「そうだね、違ったかもしれない。もっと素敵だ……私がこれまで思っていたよりも遥かに」
「マノエル……」

 啄ばむような彼の口づけは次第に深いものへと変わり、その手で撫で擦られる場所の全てが甘い熱を帯びていく。
 あと何日こうしてマノエルの腕に抱いてもらえるのだろう。その声を聞いていられる時間の残りはあとどのくらいだろう? トゥーラの心の奥深くに秘められたままの不安は大きい。明日の朝になればもう2度と語り合えなくなるかもしれない、そう思いながら過ごす日々は決して楽なものではなかった。
 それでも彼の言葉をトゥーラが疑ったことは1度もない。姿かたちが異なっても、囀りの意味が伝わらずとも、これから先の人生をマノエルと分かち合って過ごすことを、他のどんな選択肢でもなく彼女は自ら望んだのだ。

「トゥーラ、伝えられなくなってしまう前に何度でも言いたい。私はずっと君を愛してる、心はいつでも君と1つだ。君の隣にいられることで私がどんなに幸せなのか、それを君にも知ってもらえたらそれ以上望むことはないよ」

 緑の眸に零れそうな涙を唇で拭いながら、彼は優しい声で愛する番いに想いの丈を囁く。マノエルの種族が求愛の歌を高らかに奏でるように、彼が紡ぎ出す愛の言葉もトゥーラの胸を満たしていった。

「……君が好きだ。トゥーラ、君を愛したことを後悔したことは1度もない……これまでも、これからも」

 告げられた愛は彼女の頬をついに涙となって濡らすが、それは悲しみからではなく温かな喜びから来るものだ。そんなトゥーラの背を抱きしめるマノエルもとても幸せそうで、蜂蜜色の双眸はただ1人彼女だけを見つめている。
 違う生き物に生まれた2人がこうして愛し合ったことは、本来歩むべき道を大きく外れた行いかもしれない。だが宿るはずのない命は奇跡の力を借りてじきに生まれ、この想いに偽りがないことの証となってくれるだろう。全ての疑問に1つ1つ答えを導くよりなお早く、マノエルとトゥーラは共に過ごす中で真理へと到達した。相手を心から愛している、その想いはどんな困難にも立ち向かえるほど強く尊い。

「私もあなたを愛しています。この想いはずっと変わりません」
「トゥーラ……」
「傍にいてください。マノエル、いつまでも私をあなたと一緒にいさせてください」

 彼女の黒蜜色の髪をそっと優しく撫でる大きな手。再びキスを交わした後でトゥーラに微笑み彼は誓った。

「ああ……ずっと一緒にいよう。私は君の傍を離れない」

 昼と夜がひと巡りする毎に子供を産む時は近づく。2人はそれまでの日々を1日たりとも無駄にしないように、精一杯に愛を囁いては幾度も口づけを交わした。彼女の体調が許せば時折慎重に身体を重ね、もうすぐ肌では感じられなくなる繋がりを心に刻む。同じ種族に生まれていればこんな悩みもなかっただろうが、異なる生き物だったからこそ2人はこうしてめぐり逢えた。例えもうすぐお互い触れ合える日々に終わりが訪れても、2人が1つになれた喜びは永遠に色褪せはしない。
 人里離れた果樹園の、果実の香りに包まれた家。そこに住まう鳥と人間の夫婦は確かに幸せだった。もうすぐ子供が生まれる妻とその隣に寄り添った夫。心と心が通じ合っていることが傍目にもわかるほど、何も知らない者が目にしたなら幸福な家族そのものだ。
 ――そしてトゥーラが愛の実を口にしてから1ヶ月が過ぎた日、禁忌の愛を貫いた2人に運命の時は訪れた。