「哀れだな、赤羽根。お前はあの女が何を産むのかも見ずにこのままここで死ぬんだよ。だがそう悲観しなくてもいいぞ? すぐにあの人間も腹の子供もお前の後を追うだろう」
「そんなことをさせてたまるか!」

 感覚が薄れてしまうほどの痛みが身体を走り抜ける。何も感じなくなってしまえば死はもはや逃れられないだろう。だが負けることはマノエルの生命の終わりを意味するだけでなく、トゥーラと2人の間に授かった仔も失うということだ。裏切り者の汚名を甘んじて受けてまで手に入れた愛を、こんな形で失うことなどどうして受け入れられるだろう。そんなことはできるはずもない。この場で敵と戦うこと、そして必ず勝って帰ること。それのみが彼に残された唯一にして最後の道だった。
 2羽の爪と爪が、嘴と嘴が空中で剣のように交錯して斬り結ばれる。一撃でも入れることができればそれはもはや決定的だ。マノエルと大鷲は鋭い鳴き声で空を劈きながら、一瞬の油断も許されない戦いの中に身を投じる。2羽の翼からは黒とあかの羽根がいくつも空に散っては、季節外れの花びらのように吹き抜ける風に舞っていった。

「フン……しぶとい奴だ。王の名は伊達じゃなかったわけだ」

 苛立たしげにそう言う鷲も傷を負っていないわけではない。マノエルの方が圧倒的に不利かつ手負いであるとはいえ、このまま長く戦うだけの余裕がないのは敵も同じだ。

「だがな……!」
「!!」

 既に負った深手の痺れるような痛みに体勢が揺らぎ、そのほんの僅かな隙に首筋を毒針のような爪が貫く。凶悪な、命を刈り取る武器を致命的な場所に受けて、マノエルの黄金色の目に映る空は真っ白に染まった。

「…………!」

 激痛に声を上げても嘴からは血があふれるばかりだ。止めを刺すつもりでいる鷲は愉悦に満ちた勝利を前に、復讐が果たされる甘美さに酔いながら左眼を歪めた。

「お前は所詮狩りをするために生まれてきた鳥じゃないだろう? こうして無様に死んでいけ、翼を捨てた人間もどきめ」

 首の骨がもうすぐ折れる。もはや呼吸もできないマノエルは霞んだ目を必死に開き、眼下に広がる森のどこかにいるトゥーラの姿を探した。しかし既に自分が何を見ているのかその区別さえつけられない。彼は黒蜜色の髪に、緑の眸に想いを馳せる。すぐ近くで彼女はマノエルの帰りを待っているというのに。

“トゥーラ……すまない、私はもう……”

 生の終わりはどんな種族の誰にも平等にもたらされる。だがこんな風にそれを迎えると考えたことはあっただろうか? 半刻前には愛しいトゥーラと手に手を携えていたのに、昨夜はその肌の温もりさえも分かち合うことができたのに、こうして彼女と離れ、別れの言葉1つさえ言えないまま、生涯を閉じることになると果たして想像できただろうか?

“……トゥーラ……”

 両の鉤爪に獲物を抱え込んだ鷲は高く舞い上がり、マノエルを空の上から叩きつけて骨まで砕くつもりだ。番いと子供を待ち受ける運命に抗おうともがいても、彼の翼は小さな痙攣を繰り返しもはや羽ばたけない。

“……愛してる、トゥーラ……”

 全てを照らす眩しい太陽。その光にトゥーラと同じ限りない温かさを見出して、マノエルは自身の生き方さえも変えた想いを反芻した。例えようのない苦しみと、そしてそれ以上の幸福を彼に与えてくれた神秘の感情。森の中で出逢ってから長い時を経て結ばれたトゥーラと、愛の実の力によって宿った種族を超えた愛の証。よしんば過去に戻れるとしてももう戻りたいとは思わない。こうして苦痛の果てに孤独な死を迎えるとわかっていても、トゥーラと愛し合えた時間を悔やむことなどあり得ないからだ。
 せめて彼女とその子供だけでも敵の手から護りたかった。マノエルが非業の死を遂げることで捕食者が満足すれば、あるいは迷い込んだ里人がトゥーラを発見してくれれば。さりとてそんな願いの行く末を確かめることはもうできない。ふわりと身体が浮き上がるような感覚を味わった後は、命の終わりへと続く急降下だけが待っているのだから。

「さあ苦しめ。そして死ね」

 喜びを押し殺した冷酷な大鷲の声が時を告げ、骨まで食い込んでいたその鋭い鉤爪が一気に開く。いつでも自由に飛ぶことを許されていた大いなる天から、羽ばたくこともできない翼と共に落下するだけの身体。
 だが閉じていた目を最後の力で薄っすらと開いたマノエルは、昼日中に虹色の星が視界の隅で輝くのを見た。

「――マノエル様!」

 身体に感じた衝撃は想像より遥かに小さかった。血まみれの羽根が震えたが、どういうわけか彼は生きている。そして懐かしい声や自身の身を支える存在に気づいた時、その目に映った光景はすぐには信じられないものだった。

「羽根を毟れ! 奴が飛べなくなるまで毟るんだ! 怯むな!」

 数十羽の仲間たちを先導して命ずる者はルカスで、集まっては飛び退く青や黄色の羽根の中に敵は見えない。しかし聞こえてくる叫び声は間違いなく大鷲自身のものだ。

「奴は右側が見えん。そこを狙え、我々で戦うんだ!」

 毅然とした声で指揮を執るルカスはマノエルを護るように、敵との間に立ちはだかりつつ徐々に距離を広げ始める。

「……ルカ、ス……?」

 その背に向かってマノエルが蚊の鳴くような声で呼びかければ、誰よりも忠誠を尽くしてきた家臣はすぐさま振り向いた。

「どうぞ後はお任せください。我々はあのような敵を、王たるあなたを害した者を絶対に許しはいたしません」
「なぜ……ここ、へ……?」

 未だ王と呼ばれたことにも気づかぬままマノエルは尋ねた。その間にも鷲は断末魔めいた悲鳴を響かせ続け、止め処なく舞い散っていく羽毛には紅い血が混じり始める。

「マノエル様……あなたは群れの者たちを見捨てて出て行った。そして人間の女であるトゥーラを番いとして仔を設けられた。あなたがあの大鷲から我らを護り抜いてくださった後、私はそれらの全てを包み隠さず皆へと話しました」

 その話を聞いた仲間たちが受けた衝撃はいかばかりか、見捨てられた彼らの心の傷は想像するに余りある。空を知らない果樹園の娘に禁忌の恋をしたマノエル、彼の真実の姿を知ってもその想いに応えたトゥーラ。鳥と人、彼らはどちらの世界からも受け入れられはしない異端者だ。そんな者を王としていたことにさぞや絶望したことだろう。
 しかし……。

「あなたが王の座を去られ再び戻ることはないと言っても、皆は頑なにその話を信じることはありませんでした。王はただ1羽あなただと、そして次の王はあなたの血を継いだ王子しかあり得ないと、群れの誰もがそう言って幾度となく私に詰め寄りました」
「……まさか……」

 そんなことは起こるはずがない。愛のために彼らを見捨て、一言の謝罪も弁解もなく群れを後にしたマノエルは、信頼を寄せられる資格などもはや失って久しいのだ。

「あれから幾日もの間、我々はこれからどうすべきなのかについて議論をしました。それは到底すぐに明確な決着のつく話ではなく、群れの将来を左右するだけに誰もが苦しんだものです。そして長い時間をかけて各々が率直に腹を割った結果、ようやく我々はその結論を導くことができたのです」

 真っ直ぐにマノエルを見たルカスは栄えある臣下の長として、恭しくも荘厳に群れの者たちの総意を口にした。

「マノエル様、我らはこれからもあなたを王として仰ぎます。あなたと、あなたが選んだ王妃――トゥーラ・クオーレ様のことを」