もう自分は死んでいるのではという考えがふと頭をよぎる。そうでなければこんなにも都合のいい言葉など聞こえはしない。トゥーラさえいれば他の何をも望まぬと決めたマノエルだが、こうして受け入れてもらえる日をどれほど夢見ていただろうか。
 家族だけの隔絶した世界に生きる覚悟は固めていた。番いを何より大切にすると決めたからこそ群れを捨てた。だがトゥーラがどれほど愛しく素晴らしい資質を持つ女性なのか、仲間にもわかってもらいたいと願ったことは1度ではない。背中を預けられる友がいることがどんなに心強いか、いつの日か子供にそんな話を語りたいと思ったことも。
 しかしそうして何もかもを手に入れたいと望むことなど不可能だ。だからこそ彼は運命の恋を選んで巣を離れたものの、仲間のことを思わなかった日もまた決してなかっただろう。本当はどちらか1つを選ぶことなどとてもできはしない。マノエルにとって家族と仲間は全く違った意味を持ち、それでいて同じほど大切なかけがえのないものなのだから。

「ルカス、お前は……お前たちは、それで……っ!」

 それでいいのかと尋ねようと彼は嘴を開いたものの、言い終わる前に言葉の最後は吐かれた紅い血に変わった。大鷲と戦っている雄たちは徐々にマノエルから離れ、遠くに飛沫を上げている滝壺の方角へ向かっていく。風切羽根を無くした猛禽はもはや逃げることも叶わず、勢いよく流れ落ちる瀑布の水の中に沈んでいった。

「さあ、マノエル様をお降ろししろ。王妃を動揺させぬよう姿の見えぬ離れたところへな」
「待……って、くれ、ルカス」
「マノエル様?」
「どうか、トゥーラの傍へ……連れていってくれ、頼む……!」

 数羽の側近だけが残った場で懇願されたその願い。まるで最後の別れのようなそれにルカスは嘴を噛んだ。やっとのことで群れの者たち全員の思いは1つとなり、再び王の帰還を乞うために彼の元へやって来たのに。民に望まれた偉大な王がここで命を落とすのならば、ルカスたち群れの者の願いは永遠に叶わぬまま終わる。
 あらゆる意見を戦わせてきた何日もの時間の中で、常に議論の只中にあり続けたのはルカスの意思だった。王に群れに戻ってほしい、だがトゥーラを認められはしない、しかし心から尊敬するマノエルはその妻に彼女を選んだ……そんな風に仲間たちが吐露していったいくつもの感情は、全てルカス自身の中に渦巻いていたものと同じだった。自分が、そして全ての者が納得できる答えは1つだ。聡いルカスはきっとそれに最初から気づいていたのだろうが、自らそこに辿り着くことは彼をして容易ではなかった。
 だがあの日、群れを襲った鷲と戦うマノエルを目にした時、ルカスの心に生じた思いは揺るぎのない真実だった。それをはっきり認めた時、一族の前に閉ざされていた真理の扉は開いたのだ。

『マノエル様をもう1度我々の王としてお迎えしよう。トゥーラも……王妃も、お2方の血を引いたその仔も共に』

 それを群れの前で宣言したのは他でもないルカスだった。王から直に真実を語られた唯一の者たる彼は、恐らくは誰よりもその意見とは離れた場所にいただろう。しかし結論を告げた瞬間、自分が本当に望んでいたものは何だったのかをルカスは知った。この言葉こそを彼はあの日からずっと待ち続けていたのだ。最もマノエルの帰還を切望していたのはルカスだった。民に愛された王たるマノエルの傍に仕えることこそが、いつしか彼の生きる意味となって既に久しかったのだから。

「……仰せの通りに」

 それは苦渋の決断だった。こんな姿の彼を見ればトゥーラが取り乱すのは明らかで、それが良からぬ刺激であることは聞かずとも誰にでもわかる。卵を産む者でさえ出産は死の危険があるというのに、彼女とその仔に万一のことがあれば正気ではいられない。
 本当はもっと早く王を救い出すために動きたかった。しかしあまりにも緊迫した戦いに身を投じる2羽の間に、迂闊に入り込むことはルカスであろうとできることではない。マノエルが敵の鋭利な鉤爪に囚われてしまってからは、攻撃を仕掛けることで彼が死に瀕する危険さえあった。見ていることしかできない鳥たちはあの時と同じ無力を、何も変えることのできない彼ら自身に絶望を感じた。だが救いとなるべき王は既に傷つきながらも仲間を護り、今は番いと生まれ出づる子供のために命を懸けている。今度勇気を振り絞り戦場へ羽ばたかねばならないのは、マノエルの庇護の下で命長らえた者たちの番だった。彼らが王から受けたたくさんの恩に報いられる機会は、マノエルが絶体絶命の危機にある今しかなかったのだ。
 王と、その血を分けた唯一の仔、そして母親のトゥーラ。今この時、その誰もが命の危険と隣り合わせにある。しかしルカスたちにできることはもはや行く末を見守ることだけだ。生きるための希望を繋ぐ王の望みを叶えることだけだ。

「マノエル様!」

 負担がかからぬようゆっくりと側近たちが降り立った時、ざわめきのような鳥の囀りが森のあちらこちらに走る。痛みにふらつく頭を持ち上げつつマノエルが目を開けば、トゥーラの周りを数え切れないほどの雌たちが囲んでいた。

「なんて酷い怪我! すぐに巣へお戻りにならなければ」
「いや、王は王妃の傍に……ここに留まることをお望みだ。このまま王子のご誕生をできる限り待たせて差し上げろ」
「ルカス、でも――」

 抗議の声を上げた雌はルカスの視線を受け口を噤む。それに例え彼らが数羽がかりで連れ出そうとしたところで、マノエルはその場を一歩たりとも動くことはなかっただろう。足跡が血で紅く染まるほどの怪我を負っているというのに、彼はすぐ傍に横たわる妻の傍らへと踏み出していく。ほんの僅かな距離でさえも離れていたくはないというように、マノエルの黒い嘴が彼女に触れられるほど近くまで。
 地を掴み、苦しむトゥーラの周りは破水故に濡れている。断続的に上がる叫びの間隔はだんだん短くなり、下肢の間にはもう子供の頭が見えてもおかしくはない。誰かが傍にいてやらねば。だがこんな時、彼女が求める相手はマノエルしかいない。だからこそ彼はここに戻った。傷ついた翼を引きずり、震える身体に鞭打ってでも、魂で結びついた愛する番いの元へと帰ったのだ。

『トゥーラ……』

 マノエルは鳥の姿のままで彼女の心へと呼びかけた。固く瞑られたトゥーラの目がそれに応えて薄っすらと開く。

「マノ……エ……ル……!」

 痛みを堪えながらも彼女は愛した夫の名を紡いだ。彼の身に何が起こったのかをその姿から察しながらも、トゥーラは涙を流してただ蒼白な唇を噛み締める。

『すまない……また、遅くなった』

 微かに横に振られる首。口を開けば彼女は痛みのあまりに叫んでしまうからだ。

『布を持っては……帰れなかった。君と、約束したのに』

 マノエルは崩れ落ちるようにトゥーラの肩口へと倒れこみ、黄金色の彼の眸と淡い緑の目が交錯した。途端にマノエルの中に彼女の感情が流れ込んでくる……寂しさに不安、孤独に恐怖、陣痛のたまらない痛み、そして今まさに生まれようとしている新たな命へと捧ぐ愛。
 一方トゥーラもまた彼の心が手に取るかのようにわかり、この場所を離れてからマノエルの身に降りかかった災いと、彼の命が残り僅かであることまでもがその目に見えた。