レオンとクライヴが2人それぞれ馬の手入れをしている頃、母屋に戻ったシャンティは夕飯の支度の続きにかかる。しかしジャガイモの皮を剥く手つきに淀み1つないとはいえ、頭の中を占めているのは思いがけぬ来訪者のことだ。
“最後のお客様なんだもの、少しでも気分良く過ごしてもらいたいと思ってもいいじゃない……”
クライヴに言えなかったその言葉を胸の中で反芻する。彼の態度に理由があることは十分に理解しているし、そうせざるを得ない原因についても嫌というほど学んだ。だがこの歳になっても人を見る目などないと思われるのは、成人した女性たる彼女にとってはもちろん不満だった。その術を彼女に教えたのが両親ならばなおさらだろう。
『シャンティ、馬は人を選ぶ。人を見てわからない時はその相手が乗っている馬を見ろ。いい馬は決して自分から悪人を乗せることはないんだ。そして善人がその馬の手入れを怠ることもあり得ない』
そんな含蓄のこもった言葉の意味などわからない頃から、シャンティは父ライアンが繰り返し語るのを聞いて育った。そしてもっと長い期間それを耳にしていたのだろう母が、牧場に迎え入れたカウボーイや客は皆礼儀正しく、何らかの理由をつけてその宿泊を断った者たちは、町で些細な諍いの果てに去ったと噂に聞いたものだ。シャンティはまだ年端もいかない幼い少女だった頃から、心根の清い者とそうでない者を見抜く術を得ていた。そして歩き始めるより早く牛馬に触れる娘にとって、他より秀でた馬と持ち主を知ることなど難しくない。
彼女は両親を愛していた。10歳の頃にまず母を、1ヶ月前に父を亡くしてなおその想いは強く深い。だからこそ両親の教えを娘は忠実に守っていた。給料が払えなくなる前に雇い人に次を紹介し、羊や豚はそれなりの値段で同業者の伝手へと託し、メイフィールド牧場の名を汚すことなく幕が引けるように、たった1人の娘であるシャンティは絶えず努力をしてきた――父ライアンが初めての心臓の発作に見舞われた直後、突然訪ねてきた眼帯の男と出会ったあの時から。
「おい小娘、話がある」
物思いに沈んでいた彼女は聞こえた声に顔を上げる。振り向けば老年に差し掛かった白髪の牧童頭が、憮然とした青い目をエプロンドレスのシャンティに向けていた。
「お帰りなさい、ゴードン。今日はずいぶん早く終わったのね」
「テッドから聞いたぞ。お前、余所者を馬共々今晩ここに泊める気でいるらしいな」
「あら、見た目に似合わずあなたもずいぶん情報通みたい」
おどければぎろりと睨まれ、娘は諦めたように肩を竦めるとパイ皿を取り出す。
「そうよ。ミスター・ブラッドリーはこの辺りの人ではないけど、ミスター・バロウズと関わりのある人には思えなかったから」
「お前にそれがわかるってのか?」
「ゴードン、いい加減にしてちょうだい。私があの人たちに門を開けろなんて言ったことがあった?」
牧場の大黒柱である彼に敬意を払っていても、シャンティとていつまでも右も左もわからぬ小娘ではない。それでも牧場主としてはまだまだ半人前でしかない、自分の立場のなんと中途半端で割り切れないことだろう。お尋ね者やそれに類する悪党の一味でもない限り、食事とベッドを提供するのは両親が誇りとしてきた。そして一宿一飯を求める者を受け入れるか否かは、牧場の後継者が受け継いだ権利のうちの1つだった。
その時から今日この日まで、牧場を訪れたのは彼女が受け入れられぬ者しかいない。それだけに目に適った相手へと敵意を投げかけられるのは、自身の判断が信用されていないという証でもある。レオンを信じた自分の決断に迷うことなどないならば、口答えの1つもしてみたくなるのが人情というものだ。
「それに門からその方を、ミスター・ブラッドリーを裏口まで通したのはテディなのよ。何も私が町から引っ張ってきたわけじゃないんですからね」
自らこうして嘯いてみせるのは自虐もいいところだろう。しかし牧場に残った3人の中で最も年長で、最も激しい気性の彼を納得させるのは難しい。ゴードンにとってシャンティはまさに自分の娘も同然の――それも小さな子供同然の、庇護してやらねばならない対象の1人でしかないのだから。
「……ミートパイは献立になかっただろう、贅沢するな」
短い口髭の陰からぶっきらぼうに告げられた話題は、これ以上の追及の手を逃れた娘の勝利を表す。老牧童頭は来客に腹を立ててはいるのだろうが、少なくともレオンとその馬を叩き出すことは止めたようだ。
「お客様がいるのにいつものシチューとパンだけじゃ寂しいもの。それに私たち以外の誰かとここで食卓を囲むのも、これが最後になるならおいしいものをお出ししてもいいでしょう」
長く病を患った父の看病は安くはなかったが、慣れ親しんだ家で最期まで看取れたことは幸いだろう。だが高額な治療費の返済に充てるはずだった資産は、もはや当初の価値を失うどころか大きな負債となった。しかし悪意ある者の手でそんな窮地に追い込まれていても、全てを放棄し逃げ出すことをシャンティは自身に許さない。既にこの牧場を抵当に入れる手続きは進んでおり、大口の債権者たちもひとまずは納得してくれるだろう。そろそろ専門家に任せたその証書も仕上がる頃合いだ。それさえ終わればすぐにでも、家族同然の彼らと故郷を離れる覚悟はできている。
旅立ちを実行するまでに残されている時間は少ない。シャンティは居場所を知られている。彼女に関わる全てのものを奪い取ろうとしている者は、望めば今すぐにでもこの場所へやって来ることができるのだ。武器を持った男たちの襲撃を阻むことはもうできない。あらゆる犯罪に手を染めることを厭わないならず者たち、他でもないその頭目がシャンティをつけ狙っているのなら、痕跡を1つ残らず消し去りこの地を後にするしかない……。
「ゴードン、お願いだからお客様に失礼なこと言わないで。あなたもあの人の馬を見れば泊めることに同意するはずよ」
「フン、全く口だけは達者な生意気に育ったもんだ」
頑固な牧童頭は苛立ったまま奥の間へ歩み去る。再び独りになった娘は手早くパイ生地をまとめると、香辛料を利かせた肉だねを幾重にも層状に重ね、炎がパチパチと音を立てるオーブンへとパイを押し込んだ。
かつては30人ほどの牧童が食事をした食堂も、テーブルの隅の4席だけを使うようになってもう長い。今夜でこそ5席目の食器を用意することも許されるが、前回そうできた時がいつだったのかは誰もが知っている。
“……お父さん……”
幸福な日々を思い出した彼女の目には涙が光るが、さりとて時は流れ、悪夢のような現実は消えはしない。シャンティは窓の向こうに小さく見慣れた人の影を捉え、エプロンの裾でさっと目元を拭うとグラスを並べていく。泣いているところを見られたら子供と言われても仕方ないし、何もわざわざ客人の前で涙を零すこともないだろう。せめて全員が揃う食事くらいは明るく摂りたいものだ。特に、次にいつそんな機会があるのかもわからない時は。
「どうぞ席におかけになってお待ちください、ミスター・ブラッドリー。テディとクライヴもお疲れさま」
大きく開いた裏口の戸に彼女は笑顔で声をかける。真っ先に入ってきたテッドは眼鏡越しの目を細めながら、漂う食欲をそそる香りに心底嬉しそうに言った。
「お嬢、どうやらパイを焼いたな? こいつは予想外の幸運だ」