荒野と言えども乾いた草地ばかりが続くとも限らない。小石混じりの土漠もあれば丈の高い葦が生える湿地、赤土が風に吹かれているような場所もあれば林もある。
 シャンティたちが南のフォートヴィルへ下る旅を続ける中、西側の遥か遠くに山が見え始めたのはいつだったか。小高い丘の連なり程度だったそれはやがて大きくなり、同じものが東の地平線にも薄い影を作った時、一行はいずれ東西を走るその山脈が繋がること、またそれを乗り越えなければ先には進めないことを悟った。幸いこの山々も一枚岩でできているわけではなく、所々に存在するいくつかの谷を通り抜けられる。従って岩山を丸ごと登り下りする必要はないが、平原の牧場で生まれ育ち山地を知らない娘には、毎日が知らないことばかりの大冒険にも等しかった。
 どの場所で山脈の向こう側に渡るか話し合った結果、5人が選んだのは岩壁が聳える川沿いの渓谷だ。一行は日の出と共に出発し草原に別れを告げる。石と土が混じった足場は簡単に通れるものでもなく、牛や馬の脚を傷めないためにも歩みは慎重になる。だが水こそあれど餌になるような青草には乏しいため、あまり長々と時間をかけることも無論推奨できない。先に進んで行くにつれ道幅は驚くほどに狭くなり、多くの家畜を率いている隊は自然と縦に長くなる。つい先日まではどこまでも続くように思えた青空も、今は両側に切り立っている岩の合間から覗くだけだ。
 既に昼時を過ぎてそれなりの時間が経った気がするのに、牛の進みは依然遅く視界もまだ開ける気配がない。一体どこまで行けばこの谷を越えて平地に戻れるのか、それはその時がやって来なければきっとわかりはしないだろう。少なくともシャンティの前にも後ろにも牛は続いていて、このままでは夜を明かす準備をすることさえできそうにない。
 しかし彼女の不安はいつ終わるとも知れぬ谷だけではなく、ほんの僅かな天気の変化にも同じくそれを感じていた。もし今ここで雨が降れば。そうでなくとも上流で豪雨めいた天候が訪れたら。今は涼しささえ感じられる穏やかな明るい渓流も、あっという間に鉄砲水となり全てを押し流してしまう。
 地図にも載らない辺鄙な場所で誰にも知られず死を迎える。自分がいつそうなってもおかしくはない立場だと気づく度、シャンティは恐ろしい旅をしていると実感せざるを得ない。川の流れを変えてしまうほどの大岩がいくつも見えるが、崖の上から転がり落ちてきただろうそれが自分の上に、仲間の上に落ちてこないという保証などどこにもないのだ。
 切り離せぬ静かな恐怖、それでも彼女が旅の中で感じるのはそれが全てではない。その岩肌の隙間から微かに顔を覗かせる白い花、冷たく澄んだ水の中に揺らめく小さな魚たちの影。シャンティの豊かな心はどこにでも美しさを見つけ出す。牧場の中で一生を過ごしていればきっと知らなかった、想像さえ及ばなかったであろうそんな世界の姿をも。

「しかし奴さん平気かねえ……」
「テディ、何のこと?」

 幌馬車の手綱を取るテッドが心配そうにそう呟き、その隣でミルキーウェイに乗った牧場主が問い返す。

「先住民の馬はこんな崖からも降りてくるって言うだろ? もし今ここへ落っこってこられりゃお手上げだ、もう仕方ない。でもよ……」

 そこまで言うと眼鏡をかけた男はちらりと後ろを見やり、彼女はテッドが言いかけて口を噤んだ部分を理解する。大きな黒い馬の影と、その背に跨る男の姿を見なくなってからもう長い。
 渓谷を行くにあたり殿を務めるのは用心棒だ。先頭はゴードンと前線に復帰したクライヴの2人で、中盤には幌馬車を駆っているテッドとシャンティとが続く。もし何者かが一行に気づかれぬよう襲撃せんとして、それが崖を降りられる相手なら運は尽きたと言えるだろう。だが前方から襲ってくるのであれば迎え撃つこともでき、いつまでも先に進めなければ後の2人も異常に気づく。従って後ろからの攻撃が最も手薄になりやすく、かつ前を行く者たちがそれを察知するのは難しいのだ。
 最後尾を守る者は例に漏れず手練れの必要があり、5人の中で他にその役が果たせる者もいないとなれば、レオンを谷の最後に残すことは避けられぬ決断だった。そもそも殿を志願したのは他ならぬ彼自身であり、それを言い出した時もいつもと何ら変わりはなかったのだが、シャンティが先に出発してなお振り向かずにいられないのは、決してレオンに対する信頼が足りないからなどではない。
 途方も無い条件を飲んででも同行を懇願したのは、彼の能力が他の何にも換えられないと感じたからだ。さりとて危険の伴う旅だからこそ来てもらっているのに、今や彼女は用心棒が傷を負うことさえ恐れている。すぐまた顔を合わせるとばかりに帽子を上げ別れたレオン、だがそれが最後に見た姿にならないとは誰にも言えない。まるで魔法のような銃捌きをもう見ることは叶わずとも、彼が得物を使わずに済む以上の喜びがあるだろうか?
 レオンはもはやこの旅を続ける上で欠かせぬだけではなく、シャンティ自身にとっても大切な人物になりつつあった。昼と夜が巡る毎に娘の心を揺り動かす何か、それは少しずつだが確実に彼への認識を変えていく。荒野の果てを見通しているかのような黒曜石の眸、先住民たちと同じ凛々しい眉にすっと伸びた鼻筋。陽に焼けた横顔には過ぎた年月を示す皺が刻まれ、人生経験が豊富な男であることは疑いがない。それでいて時折見せてくれるあの少年めいた一面が、レオンを世に2人といないほど魅力的に感じさせるのだ。

「大丈夫よ、テディ」

 彼女は自分自身に言い聞かせるように同行者に告げる。

「あの人はきっとこんな道を通ったことだってあったでしょう。私たちよりずっといろいろなところを知っている人だもの、こんな時どうすればいいのかくらいわかってるに違いないわ」
「ん……そうか、そうだよな。俺たちがいくらじたばたしたところでこうなったら仕方ねえ。あれこれ考えるより今はただ前進、前進あるのみだ!」

 元気よく声を上げた歳上の友人に微笑みを返し、シャンティは再び前を向くと牛たちを先へと追い立てた。今の彼女にできることはレオンが無事であると信じること、そして動物たちが今夜休める場所を見つけることだけだ。心の中に生まれた未知の想いに戸惑っていたとしても、それが担うべき仕事を疎かにしていい理由にはならない。用心棒たる彼と並び立つ資格を得たいと願うなら、まずは目的地のフォートヴィルに向かい歩みを進めなければ。
 敬愛すべき年長者ならこれまでに何人も知っていた。しかしシャンティがレオンに対して抱き始めたこの想いは、今までの人生で感じたことのあるどれとも違っている。そう遠からぬ日にその正体に気づく時が来るのだろうが、まだそれは彼女の胸の奥で封印から解かれてはいない。だからこそ娘の純な心は乱れずにはいられないのだ――いつか必ず旅は終わり彼と別れる日が来ると思うと。

「ええ、暗くなるまでに広いところまで抜けてしまいましょう。湿った沢じゃ火を起こすための枯れ草も見つからないものね」

 黄昏が迫りくる中ようやく広がりつつある道幅に、鳶色の双眸は再び希望の光に満ちて輝く。いつも5人で温かい食事と共に囲む焚き火の炎、その火の粉の煌めきを眸の中に映しているかのように。