太陽の下で額に汗して牛を追っている日々ならば、たまにはこんな風に涼しげな渓谷を行くのも悪くない。とても全力で駆け抜けることなどできはしない道だったが、弾ける水飛沫を浴びられるのは人馬共に楽しかった。
 だが水場は安らぐと同時に緊張感をも強いる場所だ。おしなべて命あるものは水から離れて生きていけぬ以上、その近くには必ず他の生き物の気配も感じられる。それが野馬や野兎の類であれば微笑ましいだろうが、時には熊や狼、あるいは武器を持った同じ人間――それもこちらに敵意を持った相手とかち合ってしまうことも、こんな辺境の水辺ではあり得ない話でもないのだから。
 古来より隊列の末端を狙う話は尽きない以上、レオンは常に背後に気を配り続けなければならなかった。もちろん独りでいようと警戒する必要はあるのだから、何もその作業自体が多大な負担を強いるものではない。それでも牛同士が横に並べないほどの狭い沢沿いで、彼は確かにこちらを伺う何者かの視線を感じた。その人物はしばしの間じっと一行の動きを見つめ、ほんの僅か途切れたと思えば再び旅人を監視する。
 そういったことに特に敏感な数頭の牛や馬たちが、どこか落ち着かなそうに首を上げたり下げたりしていたものの、レオンと愛馬マースローは普段と変わらぬ素振りを見せつつ、それでいてどんな変化も見逃さぬよう注意を払っていた。

“……行ったか……?”

 数時間に渡り一行を観察していた何者かの目、その圧力から解放された男は岩壁を仰ぎ見る。それはこの辺りの先住民の斥候であったのだろうし、必ずしも余所者に友好的ではなかったかもしれない。手持ちの銃で仕留めきれない数で襲いかかって来られれば、レオンも多少の面倒を覚悟しなければならなかっただろう。
 しかし静かに張り詰めていた空気は今や柔らかく変わり、少なくとも目に映る光景に脅威の兆しは消えている。1度は腰に下げた拳銃に指先を掠めた身としては、それでもすぐさま警戒を解こうという気にはなれなかったが、応援を呼んだ上で奇襲をかけようとでもされない限り、彼らの陣地を通行する許可を得たと見なして良さそうだ。

“全く、用心棒ってのも思ったほど楽じゃねえもんだな”

 マースローの脚ならば例えこんな悪路に追い込まれたとて、相手の数にかかわらず無傷のまま逃げ切れる自信はある。さりとて行くべき道の先を牛に塞がれている状態で、攻勢に転じられるほど人間離れしているつもりもない。相棒たる馬との自由気ままな独り旅とはまた違い、護るべきもののある道中というのは感慨深いものだ。売り言葉を買われたが故に同行している彼ではあるが、その中で新たに見出している他人ひとと自身との関係は、あの時の決断がなければ得られなかったように思われる。
 シャンティ・メイフィールドという娘とこうして知り合ったことも、レオンが雇われた収穫のうちの1つに数えられるだろう。蝶よ花よと育てられた性格は甘いとしか言えないが、旅を始めてもう1ヶ月以上の時が過ぎるというのに、彼はまだシャンティの口から弱音を聞いた記憶がなかった。カウボーイたちと同じ洗い晒しのシャツに華奢な身を包み、目を見張らせるほどの馬術の腕を持った女牧場主――彼女について一言で語るのは不可能なほど難しい。
 アラステアのような悪漢に拒絶を伝えられること自体、普通の家庭で育った者にしては破格ではあるだろうが、また一方で悪意を見抜ききれない脆さをも内包する。厳しい旅の最中に風呂を恋しがる部分も残しながら、同じ娘は目的のために形見を躊躇せず手離した。線の細いその姿から受ける印象だけには留まらず、想像の遥か彼方を行くシャンティは興味深い相手だ。
 気丈にして明るく、へこたれることを知らない振る舞いは彼女の一面ではあるのだろう。だが馬の手入れをするレオンの元へシャンティが来たあの夜、思い詰めた様子で告げられた決意に彼は大笑いした。雇われの身である以上勝手に行動するのも憚られ、それ故に宿の女将の真意を伝えることに決めたのだが、その行為を相手がどう受け止めたのかは一目瞭然だ。世の中の現実を知らない考えなしの若い娘へと、手痛い教訓を与えたとでも思われていたに違いない。レオンにとっては日常茶飯事にも近い瑣末なことだが、初めて外の世界を知る彼女には衝撃だったのだろう。

『……気にしていないんですか?』

 驚きのあまり目を丸くしてぽかんと口を開けたあの顔。人前ではどこか無理をしてでも笑顔を絶やさぬシャンティが、あの瞬間はただの素朴な娘としてその場に立っていた。それがなぜか彼には不思議と何とも好ましいものに思え、簡単にはお目にかかれぬ貴重なもののように感じたのだ。
 月が完全に陰るまでは気丈な顔を見せていたように、彼女は他人の前で無闇に涙することを良しとしない。どんなに腕を広げて待っている相手が傍にいたとしても、シャンティが今の如く自身を戒め律し続ける限り、背負った荷を放り出してまで誰かに頼る日は来ないだろう。しかしあの表情を気兼ねなく見せられる時が来るとすれば。過酷な運命に立ち向かうために肩を借りてもいいのだと、いつの日か彼女自身がそれを弱さでないと認められれば。いずれそんな時が来たなら、娘はまた新たな一面を開花させられるに違いない。
 無理に背伸びなどせずとも助けてくれる者がいるというのに、シャンティは求められている以上のものを返そうと必死だ。忠実な家臣の如く彼女に付き添う牧童たちでさえ、シャンティに面と向かって手を差し出すのは容易いことではない。信頼できるとはっきりわかっている相手からの申し出も、断ってしまう様は時に愚かなほどに頑固にも見える。どんなものにも揺れぬ自分の芯を強く持っているからこそ、純粋すぎる行動が周りをこうもやきもきさせるのだろう。だからこそ護ってやらねば――そう彼女に伝えることをあの夜のレオンは迷わなかった。
 無謀で頑固な若駒、そして思慮深く貞節な淑女。その2つの間でくるくると表情を変える若い娘、彼女の宿命を見届ける旅はまだ道半ばですらなく、途方もない彼方のフォートヴィルへと5人をいざない続ける。それでも彼にとってこの道のりを仲間たちと進むことは、もはや契約の結果に伴う束縛からの義務ではない。彼らと共に南を目指し日々助け合うキャトルドライブは、既にレオン自身の人生を巡る旅にもなっているのだ。遥かな目的地へ一行が近づけば近づいていくほど、彼は求めていた問いの核心へと迫ることができるだろう。
 独りでいれば気づくはずもなかった答えを導く手がかり、その気配を感じているのは仲間のおかげだと勘が告げる。だとすれば牧場へ行き着いたのも運命だったのだろうか。彼がシャンティと母屋の裏口で2人出逢ったあの瞬間、こうしてこの場所に続く全ては始まっていたのだろうから。

「――ミスター・ブラッドリー!」

 夜の帳が落ちて久しい暗闇の中で平野へ出ると、辺りを照らす火の傍でレオンの名を呼び娘が立ち上がる。一足先に食事を済ませた他の牧童は席を離れ、近くの牛や馬たちの体調管理や手入れに忙しい。

「よう、遅くなってすまんな」
「お疲れさまでした。どうぞゆっくり召し上がってください」

 焚き火にかけられている鍋には温かいスープが煮えていて、冷えた身にはありがたい滋味がひと匙毎に染み渡っていく。そこに彼女の淡い想いが込められているとは思わぬまま、男は2杯目のスープを求め手にした器を差し出した。