出場者はそもそも別の場所で待機しているものなのだろう、レオンはシャンティから手を離すとすぐにどこかへと去って行く。だが残された彼女とクライヴはそれに戸惑うよりも早く、目の前で繰り広げられる競技に感覚を惹きつけられた。
「次は4番、ビリー・ハートネット!」
名前が読み上げられると同時に黄色の旗が振り下ろされ、泡を吹かんばかりに興奮した馬が中央へと飛び出す。ロデオ馬は邪魔な乗り手を排除しようと跳ねて暴れまわり、当然ながら上に跨った男も座ってはいられない。掴まるだけが精々の短い手綱では制御など無理で、背に乗る者は尋常ではない恐怖を味わったことだろう。
「うわ、危ない!」
「こりゃあ高いぞ!」
手に汗握る緊張、そして言葉にならない躍動感。故郷の祭りで目にするそれとはまるで次元が違っている。飛び散る汗の1つ1つまで目で追わずにはいられないほど、そこには馬と乗り手との確かな戦いが存在するのだ。いつしか2人は他の観客と一緒に大きな声を上げ、出場者たちに心からの惜しみない拍手を送っていた。
すぐに落とされてしまう者、半ば乗りこなしても見える者。終盤に近づく中で乗り手の技量はそれぞれ違ったが、シャンティにはまだ今か今かと出番を待ち詫びる者がいた。そして最も優勝に近いと思われる腕を持つ男、その勇姿を目に焼き付けられる瞬間がようやく訪れる。
「最後は10番、レオン・ブラッドリー!」
そこから競技が終わるまで、時間にすればそれは本当に短い間でしかなかった。しかし彼女にとってその数分こそはまさに永遠であり、魂に刻み込まれた記憶は何年経とうと色褪せない。この時この場に居合わせた幸運な一握りの者だけが、神業めいたレオンの跳躍の目撃者となれたのだから。
「――っ危ない!」
「もう見てられないわ!」
どこかで響く誰かの悲鳴。高く跳ね上げられる身体は今にも地に落ちそうに見えるが、その重心が安定していなければできない技の1つだ。それを知る者は驚愕し、わからない者は悲鳴を上げる。栗色の髪の娘はただ膝の上で両手を握りしめ、耳元で鳴っているかのような鼓動を聞くことしかできない。
「ああ、今度こそもうだめだ!」
「あんなに飛ばれたら落ちちまうぞ!」
躍起になった馬が後ろ脚を蹴って高く飛び上がる度、会場は押し寄せる波の如き熱と興奮に包まれる。麦わらの帽子は背に落ち、露わになった額に珠の汗の雫が浮かんでいようと、シャンティの目に映るレオンはそれを楽しんでいるかのようだ。暴れる馬がどんなに頭を下げ尻尾を激しく振っても、掲げられた彼の右手が下ろされることは1度もなかった。そしてその伝説のような時間の中でほんの一瞬だけ、鳶色の眸と黒曜石のそれの視線が交錯する。
「すごい……すごいぞ、あいつ!」
「もう優勝だ、ぶっちぎりだよ!」
いつまでも終わらないこの熱狂の渦の中心はレオンだ。それは彼女にこよなく誇り高い想いを抱かせたものの、自分だけの秘密が知られたような寂しさをも感じさせた。彼という最高の乗り手を人々は今ここで知っただろう。そして声援を送る娘たちが英雄を見るような目で、その名を口にしながら手を振り続けるのもまた当たり前だ。
だがその瞬間シャンティは突然それらの賑わい全てが、何かとてつもなく耐え難いことになったように感じられた。自身とて同じように大きな声で参加者の名を呼びつつ、憧れのまなざしさえ向けて姿を見つめていたというのに、なぜそれがレオンだというだけで急に苦しくなったのだろう。なぜ彼に熱い視線が注がれるのを辛いと思うのだろう。なぜ――。
“どうして……私”
思えばそれは何の前触れもなく来たわけではなかったのだ。時間が経てば経つほど、日々が繰り返し過ぎれば過ぎるほど、あらゆるものは篩にかけた砂のようにどこかへ消えてゆき、そこにはただ1つの感情だけが煌めきと共に残った。彼女はこれまでの人生で同じものを感じたことがなく、だからこそその名を見出すためには長い時間を要したが、1度でも思い当たれば他の答えには決してなり得ない。
“私は、ミスター・ブラッドリーを”
それに気づくのは閉じた目を開くように呆気なく単純で、知った後では自覚のなかった頃を不思議にも思うものだ。シャンティはこの瞬間ついに心が揺れる理由を悟った。出逢って間もないレオンにこんなにも強く惹かれてしまうのは。こんなにも知りたいと願い、その言葉を欲してしまうのは。
“ああ……あの人を、私は”
それは彼を愛しているからだ。より正確に言えば、レオンを愛し始めていたからだった。
「何てこった……シャンティ、あいつ本当に優勝しちまったぜ」
クライヴがそう呟く中、彼女の目は深紅の優勝旗を掲げた男を映し出す。アレンカードの街の紋章を織り込んだ絹地は美しく、彼の振る舞いもその立派さに劣らず堂々としたものだ。しかし今ここでレオンとシャンティを隔てている距離自体が、初めて恋を知った動揺から未だ醒めやらぬ娘には、絶対的な2人の違いを突きつけているように思えた。
シャンティが彼に特別な感情を持つに至ったところで、それを咎められる者などきっと1人もいないに違いない。旅の中で分かち合ってきた経験は唯一無二のもので、相手の人柄も出逢った頃より理解している自負もある。知っていることよりも知らないことの方がまだ多いとしても、1人の女として恋に落ちるためにはもう十分だった。レオン・ブラッドリーという用心棒の内面に触れる度、彼女が感じていたのはただ純粋な好意だったのだから。
さりとて既にそれなりの時間を共に過ごしているからこそ、彼が相手を選ぶならば自分ではないこともわかっている。どんな出逢いもこの流離い人を引き留められなかった結果、ここにいるのだと理解していれば無謀な夢など見られない。フォートヴィルに行き着くまではこうして傍にいられるというのに、それだけであることがこんなにも辛く感じる日が来ようとは。
どんなに焦がれても振り向いてはもらえないとわかっている恋。それでもレオンを想う時、シャンティの胸を満たす感情はどんな苦難が訪れても、闇夜を照らす星のような希望になってくれるに違いない――フォートヴィルで全てが終わり、2人が別々の世界に戻る時がやって来るその日まで。
「おい、優勝者のお戻りだ」
表彰が終わり席を立つ者もところどころ現れた頃、赤髪の兄代わりに小突かれて彼女ははっと顔を上げた。視線の先には確かに見慣れた黒い眸の男がおり、握手を求める者、はたまた抱きつこうと手を伸ばす者、そんな人々に囲まれつつも少しずつこちらへやって来る。
もしレオンがその途中で美女の誘いに応え去って行っても、今のシャンティはとてもそれを怒る気になどなれはしないだろう。今しがたまで彼女が見ていた光景はあまりにも眩く、そんな相手に叶わぬ恋をした自覚に哀しみこそあれど、嫉妬できるような気力などもはや残ってはいなかったのだ。
だが――。
「どうだい、お姫さん」
彼が“お姫さん”と呼ぶ時、その言葉が示す存在はこの世界に1つだけしかない。シャンティの元へ真っ直ぐ歩いてきた彼は汗を拭いつつ、娘の前で足を止めると唇の端を微かに上げる。
「ここでの宿が見つかったぜ。もちろん全員、牛も馬もな」
「ミスター・ブラッドリー……」
礼を述べねばと思っているのになぜだか言葉が出てこない。しかしそんなシャンティの手を引いてつと立ち上がらせたレオンは、黒い髪を片手でかき上げると低く掠れた声で言った。
「おっと、礼なら結構だ。その代わりと言っちゃ何だが、少し俺に付き合ってくれるか?」