「おはようございます、ミスター・ブラッドリー。クライヴも」
「よう、お姫さん」
「遅えよ、シャンティ。ゴードンとテッドはもう牛の世話をしに下に行っちまったぞ」

 中庭に面したサロンは朝日の光を受けて心地良く、シャンティはそこで食後のコーヒーを飲む2人へ声をかけた。ロデオ大会が行われた日からは早くも数日が過ぎ、人の往来が激しいこの街ではもうその話題も出ない。傷んだ馬車の枠を直し、軸の曲がった車輪を取り換え、必要と思われる物資の新たな補給ももう済んでいる。少し痩せた牛たちも旺盛な食欲を取り戻していて、春に産まれた仔牛も既に大きくなってきているとなれば、次なる旅立ちに備えるためのあらゆる用意は整った。

「昨日は噴水広場の前にある店で飯にしたんだって?」
「はい。ミスター・ブラッドリーは前に話していたサルーンに?」
「ああ、少し骨は折ったがな。記憶と場所が違ってたんでね」

 彼女がレオンとやり取りするこんな会話は他愛ないものの、常に行動を共にしていれば決して交わされないものだ。朝食用に運ばれてきた温かいパンをその手に取ると、娘の胸には夢の夜が明けた翌朝の記憶がよぎる。
 柔らかい陽射しに照らし出されたガラス張りの大きなサロン。今朝と同じく階下へ降りてきたシャンティは彼を見た途端、身体に火でも点いたかのように体温が上がる思いがした。しかし相手は彼女を一目見るなりよく眠れたかと尋ね、その双眸には前夜の熱の名残りの欠片もありはしない。そしてコーヒーを飲み終えた男は娘の横を通り過ぎ、甘い幻の最後の余韻はこうして儚く消えたのだ。
 それは前日までと何ら変わらぬ態度であったというのに、シャンティは胸に刺さるような鋭い痛みを覚えたものだ。自惚れたつもりなどなかったが、やはり期待していたのだろうか……恋しいレオンにエスコートされた前夜の記憶が眩しくて。

“……馬鹿ね。そんなことあり得るはずがないじゃない……”

 もし彼の中にもこれまでと違う感情が芽生えていたら? だが現実にはそんな都合のいいことなど起こるはずもない。一晩のうちに2人の中で何かが変わるかもしれないと、少しでも期待を寄せてしまった浅ましさを彼女は恥じた。レオンにとってはあんなキスとも呼べぬ戯れの触れ合いなど、ずっと歳下の娘に対するただの挨拶代わりなのだ。この夜の間さえ何度それを思い出したかわからないと、もし彼に見抜かれでもしたらとても普通にしてはいられない。
 これだけ多くの人々が絶えずに訪れる街だからこそ、保安官や軍に属する者はそれなりに巡回しており、一行の宿がある中心部の治安はよく守られている。そこを外れた暗がりには怪しげな者たちもいるものだが、よもやシャンティがそんな場所に喫緊の用があるはずもない。さすがに独りで出歩くようなことをしでかすつもりはないが、用心棒に四六時中護ってもらう必要もないだろう。然して彼女は咄嗟にレオンの後ろ姿を呼び止めると、自分には構わずどうか自由に過ごしてほしいと申し出た。それはほとんど衝動的にシャンティの口から出た言葉で、勝手に期待してしまった気恥ずかしさ故でもあっただろう。黒髪の男は微かな驚きをその目に宿しながらも、特に何を述べるでもなく申し出を受け入れて去って行った。
 そして今や2人はほとんど顔を合わせなくなっていたのだ。

「おいシャンティ、だからってお前も酒場に行こうなんて言うなよ。酒に弱い奴が行ったってそんなとこは楽しくもねえだろ」
「何よ、あなただって別に自分で言うほど強くないでしょう。言いがかりはやめて、クライヴ」

 なぜ恋しく想う相手の手を自ら離してしまったのか、当然子供じみた強がりを後悔しなかったはずもない。だが口づけてほしいと言わんばかりの様子を見られた以上、レオンの近くで過ごすのは何とも気まずいのも事実だった。彼はただでさえ鋭い直感を持ち合わせているのだから、冷たくあしらわれたくなければ何も気取らせない方がいい。小娘の寄せる好意など取るに足らないものかもしれないが、それをはっきり突きつけられるのはさすがに辛すぎるのだから。
 元々この旅は負の重荷を清算するためのものであり、そこに愛を見出す余地などもちろん存在するはずもない。それでも一緒にいたいのならば想いは胸の奥へと封じ、道中は単なる仲間の1人でいることに徹しなければ。そうでなければきっとまたすぐ叶わぬ望みを抱いてしまう。
 だからこそシャンティはレオンと別行動を取ると決めたのだ――例え昼夜を問わず相手が気になって仕方がないとしても。

「2人共口喧嘩しなさんな、何も飲むだけが酒場じゃないさ。世間の噂話ってのを聞くのもあの場所に限るんでね。ところでこれは全員揃ってから話すつもりだったんだが――」

 ふと落とされた男の声に娘は思わず視線を向ける。隣にいるクライヴも同様に用心棒の目を見返し、深刻そうな物言いの続きを無言のうちに求めていた。

「北の方で牢屋を巻き込んだ暴動騒ぎがあったらしい。そこで体良く脱獄した奴が何人かいるそうなんだが、そのうちの1人がどうやら俺たちにも関係ありそうでね」
「……脱獄?」

 頷いたレオンは黒い目を細めると静かな声で告げる。

「砂色の髪の上背のある男で、片眼って噂だ」

 それを聞いた瞬間にシャンティの表情がさっと凍りつき、牧場を破滅させた男の姿が脳裏に蘇った。冷酷なその笑い声も、ぎらついた灰色の左眼も。

「……あの人が……」

 我知らず震える身体を抱きしめながら彼女がそう呟く。それが誰を指しているのかは問い返すまでもなく明白だ。裏稼業を営む者たちの仲間意識は強いものだが、誰をも信じぬアラステアには味方と呼べる相手はいない。しかしその男が持ち合わせる天性の邪悪さに魅入られ、手下となり動くような者もまた確かに存在するのだ。

「で……でもよブラッドリー、奴はあんたの弾で手足を吹っ飛ばされるとこだったんだぜ? 例えその男がバロウズだとしてもすぐに追いつけるもんか」
「……普通はそうだろうな。だがあいつはそんな甘い考えで動いてくれる奴じゃない」

 否定しようとするクライヴに用心棒の返事は短い。レオンは脱獄した男が本当にアラステアだとしたら、何があろうと絶対に後を追って来ると確信していた。

「あの手の男がすぐ手を出さんのは心底惚れてる証拠だ。俺が奴ならどこへ逃げても必ずお姫さんを追いかける。牛を連れてるわけでもなし、まだまだ焦る距離でもないのさ」

 遠くへ逃げたところで痕跡を1つ残らず消せはしない。相手がフォートヴィルまで追って来るのも時間の問題ならば、アラステアの手から逃れるためにするべきことは1つだけだ。

「準備が済んでるんならできるだけ早く発つ方がいいだろう。まあ決めるのはあんたたちだ、俺はお姫さんに従うがね」

 唇を引き結んだ青年は1度だけ深く頷くと、すぐさま椅子から立ち上がり麓のランチへと駆け出していく。残されたシャンティは膝の上で握った手を見つめていたが、ふと陰った視界に顔を上げれば黒い眸と目が合った。

「そう恐がらんでも大丈夫さ」

 どこか切なくも響く声が優しさを秘めた言葉を紡ぎ、伸ばされた指は涙でも拭うように娘の頬に触れる。

「俺が護ってやると言っただろ。それとも嘘だと思ってたのか?」

 そして早撃ちの名手はほんの少し表情を和らげると、目深に被った帽子のひさしを上げながらシャンティに言った。

「俺は最後まであんたを護る。フォートヴィルに辿り着くまではな」