“おい……一体何度目だ? 集中しろ、レオンさんよ”

 牛の集団の向こう側、美しい雌馬の乗り手を見やる男は自身に毒づく。このあたりは先住民が使う通り道の痕跡があり、もしここで襲われでもすれば家畜への損害は免れない。手持ちの銃が火を放つ時も近いかもしれないというのに、こんなにも気を散らしていては反応も鈍ろうというものだ。

“他所を気にしてる場合じゃないんじゃないか? 前だけ見てりゃいい”

 だがもし彼が本当に真っ直ぐ前だけを向いていたのなら、件の相手が額の汗を拭ったことを知る由もない。それを認めているのだから、すなわちレオンは彼女の姿を目で追わずにいられないのだ。日頃はどんな小さな危機をも見逃さないはずの直感も、その全てを辺りに張り巡らせることを今は良しとしない。彼の意識は引き寄せられているかのようにとある人物に――シャンティ・メイフィールドという女へと注がれているのだから。
 アレンカードの街を後にしてからもう数日の時が過ぎ、それ以来ずっとこの調子でいることにレオンは眉を寄せる。南へ向かって牛を追う、しているのはそれまでの2ヶ月あまりと変わらないというのに、なぜこうも全てが一変してしまったような気がするのだろう? しかしそんな愚問を投げかけるまでもなく答えはそこにある。一行の中に酷く美しい女がいるという事実を、1度でも自覚してしまえばもう忘れることなど叶わない。シャンティはかくも彼の胸に響く魅力に満ちあふれており、今となってはなぜそれに気づかなかったのかが不思議なほどだ。
 いかに彼女が男と同じ服をその身に纏っていようと、ジャケットから覗く手首や帽子の紐が揺れる顎は細い。隠しきれない女らしさに目が離せなくなってしまうのは、アレンカードで禁欲を解かなかったからというわけではなく、もっと心の奥深くから湧き上がる抗えない何かが、レオンのあらゆる感覚に強くそうしろと訴えるからだ。自ら気づいた時にはその都度逸らすようにしているものの、しばらくすればまた馬上の横顔に視線が吸い寄せられる。理屈では説明できない何かで惹きつけられてしまうのだ――年齢も、生き方もまるで異なる違う世界の相手に。
 その想いは日に日に強くなり、たった数日で男の全てをこれ以上なく乱していた。

“『ちょっと一緒に走っただけで惚れても女が困るだろうに』……だと? こいつは傑作だな”

 かつて自身がシャンティに対して語った言葉を思い出し、レオンは苦虫を噛み潰したような顔で深く息をつく。
 ダンスホールから戻って宿の廊下で彼女と別れた後、彼はシャンティと過ごす未来を思い描き一夜を明かした。だからこそその翌朝に用心棒の任を解かれた時は、それが例え数日のことでさえ寂しさを覚えたものだが、申し出を拒んで彼女につきまとう尤もな理由もない。前夜の額へのキスが気に障ったのかと自問したものの、シャンティの素振りからははっきり嫌われているとまでは言えず、他に選択肢のない男はそれを受け入れるしかなかった。
 しかし実際に離れてみれば気になって仕方がないもので、似た背格好の娘が通ればついそちらを見てしまったり、前の晩の美しくも小粋な姿を思い出すばかりで、独りで入った酒場で声をかけてきた女に対しても、無意識に雇い主と比較してしまってはぎょっとしたものだ。初めて異性を意識した年頃というわけでもあるまいに、こんなことはレオンの人生で1度たりとも経験がない。

“マースローどころか俺もすっかり参っちまってるんじゃないか。しかもお姫さんとの付き合いなら俺よりもバロウズの方がまだ長いくらいだって有様だ”

 シャンティを狙う悪党が後を追って来ようとしている今、悠長なことを考えている暇はないのは承知している。次にアラステアと相見える時はどちらかの命が消え、血を流さずにこの旅を終えられないのは元より明白だ。それでも彼女の鳶色の眸がこちらを向きはしないかと、黒い髪の用心棒は折に触れ願わずにはいられない。ほのかな期待を込めて視線を送っては慌てて目を反らす、そんな無意味な行動を今日だけで何度繰り返したのかは、わざわざ思い返すまでもなく数えるだけ無駄というものだ。
 フォートヴィルに無事着いた後、シャンティは一体どういう道を歩むつもりでいるのだろう。何にせよレオンの半分程度しか生きていない彼女には、所帯を持ち幸福な生活を営むための時間がある。こんな歳上の男と火遊びをする理由はどこにもない。そしてそういう真っ当な人生を選ぶべき者に対して、余計な手出しはご法度だということは彼も弁えていた。それにシャンティの親衛隊とも呼ぶべき3人の男に、寄ってたかって袋叩きに遭い追い出されたくもない以上、レオンは努めて今までと同じ態度でいようと決めている。
 だがその誓いは見つめるだけに甘んじるという意味ではなく、機会があれば彼女の心を探る妨げにはなり得ない、極めて緩い努力目標値であることもまた事実だった。

“お姫さん、あんたは全くとんでもない女かもしれんな”

 栗色の髪をした娘はどこか野に生きる馬に似ている。不可能と知っていながらも、人は野生の駿馬を自らのものにしてみたくなるものだ。シャンティは荒れ地を自由に駆ける牝馬のようにしなやかで、大いなる優しさと同時に自分を律する厳しさを持ち、力づくで捕らえようとする輩には絶対に屈しない。普通の娘ならとうに音を上げるだろう逆境の中でも、その誇りは潰えずにむしろ高貴なほどの輝きを放つ。
 彼はそんな特別な女がどこにでもいるとは思わない。そして彼女がかくも稀な資質を持ち合わせているからこそ、そこに目をつけていたアラステアには嫌な汗をかくばかりだ。同じ技を使い、同じ女に惹かれる2人の男。決着をつけねばならない日は刻一刻と近づいている。果たしてその瞬間に自分は何を思いこの銃を構え、どんな状況で宿敵と向かい合って立っているのだろうか――。

「……っおい、マースロー! 余所見しないでちゃんと歩けよ」

 しかしそんなことを考えていると突然体勢が揺らぎ、思わず声を上げたレオンは手綱を引いて愛馬を制する。ミルキーウェイに熱を上げているマースローが鼻先を向け、近づいてきた彼女にあわよくば寄って行こうとしていたのだ。乗り手共々惚れた女には全く弱いと思いつつも、視線の先にはシャンティが微笑みを浮かべて彼を見ている。

「珍しいこともあるんですね」

 アラステアらしき男が脱獄したという噂を聞いても、必ず護ると告げた彼に返されたのはこの笑顔だった。誰よりも恐ろしい思いをしていることは間違いないのに、青白い顔ながらも彼女は気丈に微笑みを見せたのだ。怯えた姿を見せて周りに気を遣わせたくないのだろう、あの日以来シャンティは殊更明るく振る舞うように努め、それが彼女に惹かれ始めたレオンにはどうにも歯痒かった。
 いつかの月の夜のように、人知れず零れる涙を知る者は自分1人でありたい。頬を伝う雫を拭い、抱きしめて慰めるのは他でもない彼だけでありたかった。そしてそれを許してもいいと思われる日がもしも来るのなら。

「おい若造、ぼさっとすんな。牛の尻を追わせるためだけに大枚叩こうってんじゃねえぞ」
「!」

 老いた牛を急き立てていく牧童頭は通り過ぎざまに、牧場主の後ろ姿を見ていたレオンをじろりと睨む。だがその通りだと返すより先に遠く聞こえた銃声は、用心棒の黒い双眸に再び鋭さを宿らせた。

「ああ……肝に銘じるさ。俺の出番も近いようだしな」