シャンティの声はかくも熱っぽい響きを持っていただろうか? だがその答えを見つけられないうちに吐息が首筋を撫で、次の瞬間頬に触れたのは何とも柔らかいものだった。軽い足音が遠ざかり、馬車の幌が下ろされた音を聞いて初めて彼は目を開ける。

“……おい、嘘だろ!?”

 その感触にはこれまでも数え切れないほど覚えがあった。しかし今しがたのそれはかつて経験したどんなものよりも、レオンの魂を揺さぶる圧倒的な力に満ちている。シャンティが彼にキスをした、この確かな事実に驚きを感じずにいるなど不可能だ。

“あんたは本当に俺のことを……?”

 誰にでも優しい彼女が、その大枠を超えるような好意を向けてくれているとしたら。それはこよなく甘く、乾いた心に沁み入る考えだ。もっと優しくしてやりたい。もっと、いつまでもその笑顔を絶やさぬよう護ってやりたい。許してくれるのならば今すぐにでも細い身体を抱きしめ、想いの限りを打ち明けて自分だけのものにしてしまいたい。
 例え自惚れと言われようが、触れた唇が夢でないなら嫌われているとは思わない。だがいつかの夜と同じく、それを口実にシャンティを口説き落とそうとは思えなかった。彼女とレオンは元々交わらない人生を送っていた、その事実の前に情熱は大した意味を持たないのだから。
 この旅が終わり娘が普通の生活を取り戻した時、そこに彼のような根無し草たる男の居場所はないだろう。フォートヴィルまでの短い間に求め合う日々を送っても、いつかシャンティがそれを後悔するのをレオンは恐れていた。別れた後も孤独な人生を温めてくれる思い出が、彼女にとっては忌まわしい記憶となることなど耐えられない。
 ならば何もない方がいい、そんな気弱な考えは無論彼の柄ではなかったはずだ。レオンは自分にこんなにも臆病な一面があったことを、驚きと微かな落胆と共に受け止めずにはいられない。だがそれは取りも直さず愛を知らないという証でもある。これまでのどんな色恋沙汰より遥かに踏み込んだところへ、彼は45年の歳月をかけて辿り着いてしまった。今までは自らも傷つくような恋などしてこなかったが、シャンティとの間に芽生えたそれは心を深く抉るだろう。
 彼女を愛していると気づいた時から後戻りはできない。その傷が浅いか深いか、選べるのは恐らくそれだけだ。そして選択したところで、シャンティの一挙一動は瞬く間に結果を変えてしまう。引き寄せて強く抱きしめたい。その澄んだ眸いっぱいに自身の姿を映し出してほしい。お互いの唇を重ね、尽きない想いを分かち合いたい。命の終わる最後の瞬間まで片時も傍を離れず、彼女へと証明し続けたい――この想いが永遠に変わらない真実の愛であることを。

“いっそ唇にしてくれりゃよかったんだが、それは望みすぎか”

 シャンティほど生真面目で自分を律する性質であるならば、想いの伴わない相手に唇を許しはしないだろう。しかし頬では彼女をこんな行動に導いた感情が、他とは一線を画するものだとまでは断言しきれない。2人の間を隔てる絶対的な壁を乗り越えるには、ただ好意を抱いてくれているだけでは十分ではないのだ。どれだけの時が経とうとも、何があろうとも揺らがぬ絆をシャンティと深く結びたい。
 それでも彼女が同じ想いでいると確信が持てぬならば、拒絶に怯えるレオンが手を伸ばすことなどできはしないだろう。

“……なあ、お姫さん。俺はいつか認めてほしいんだ。あんたの全てを捧げられる世界でただ1人の男だと”

 彼はシャンティこそが自分の運命の相手だと知っている。一方全てを一変させ得る行動に出たその娘は、馬車の荷台の幌の中で今何を考えているのだろう。なぜこんな風に触れたのかを直接尋ねられるくらいなら、眠気もどこかに消え失せてしまうほど頭を悩ませはしない。レオンに許されているのは小さな希望を抱くことだけだ。生まれも育ちも年齢も何もかもがかけ離れた相手に、いつの日か彼女の心が傾く時が来ると信じるしか。

「ミスター・ブラッドリー、いい朝ですね。おはようございます」

 だが僅かな期待を抱いて眠れぬ夜を明かした男は、翌朝のシャンティの何事もなかった様子に面食らった。

「ああ……そうだな。お姫さんの方はよく眠れたのか?」
「はい。昨夜はすみません、眠ったら落ち着けた気がします。もうすぐビスケットが焼けますから少し待っていてくださいね」

 数日来どこか浮かない様子だった彼女を鑑みるに、きびきびと動くその姿は活発さを取り戻したようで、ようやく普段のシャンティに戻ったと言ってもよかっただろう。しかしそこはかとない違和感にレオンは思わず眉を寄せる。他の3人がそのことに言及しないところを見る限り、それは些細な雰囲気の違いでしかなかったかもしれないが、彼女の振る舞いに時折混じる何とも言えぬぎこちなさは、確かに昨夜会話を交わしている時まではなかったはずだ。そして一晩のうちに2人の間に起こった出来事など、ろくに寝ていない頭でも思い当たるものは1つしかない。

“ありゃあ夢……なわけないぜ、俺はこんなにもはっきりとあんたの唇を覚えてるんだ”

 恥じらい故の不自然さならば微笑ましく思えただろうが、今のシャンティはむしろ彼を警戒しているようにも見える。だがレオンがその態度にいくらもどかしさを感じたところで、表面上は何らおかしな点があるわけでもないとすれば、決定的な瞬間に眠ったふりを決め込んだ男には、今更彼女の真意を問い質すことはとてもできなかった。
 あの口づけがただの感謝や信頼、友情の表れで、男女の愛情を全く想起させないものであったならば、シャンティが彼にだけこんなにも奇妙に振る舞う理由がない。ところが慕情を秘めたものだとしてもその態度は不可解で、彼女の本心がどこにあるのかは見当もつかないままだ。

“お姫さん、あんたはどっちなんだ? 多少なりとも気があるのか、それとも思い過ごしだってのか……?”

 馬上の人となったレオンは栗色の髪をちらりと眺め、期待とやるせなさをぶつけるように心の中で呟くが、前だけを見つめ続ける娘がこちらを振り向くことはない。彼女に想いを寄せていればこそ些細な違いも気にかかり、どうにか頭を切り替えたくとも堂々巡りになってしまう。よしんば彼が自ら探りを入れようと試みたところで、鉄槌を下しかねない監視役が3人もいるとなれば、その疑問に対する答えを得る機会などないに違いない。
 とは言え黙って逡巡の時を過ごしているのは辛かった。しかもそれはすぐに終わらず、翌日も、そのまた翌日もシャンティの素振りは変わらない。まるで旅の始めのぎこちない関係に戻ったかのように、鳶色の眸の娘はレオンに対し一歩引いたままだ。

“くそっ……あんたにとって俺は一体どんな存在なんだよ”

 長旅の中で少しずつ近しくなれたと感じていたのは、元より蚊帳の外にいた部外者の彼だけだったのだろうか? 今の彼女はアレンカードでダンスをした相手とは思えず、もう1度その手に触れられるかどうかさえもはや疑わしい。小さな不安はやがて自分でも止め難い苛立ちへ変わり、相手は2周りも歳の違う若い娘と知っていても、口には出せない不満は心の奥底で燻り始める。
 そしてシャンティの謎めいた口づけから5日が過ぎたその日、立ち寄った街で起きた出来事は疑惑を確定的にした。