周りに知られないよう夜中に独りで涙を流すことは、アラステアが本性を見せ始めた時から既に慣れている。シャンティの頭からはレオンの言葉と冷たい目が離れず、拭えども拭えども頬を伝う雫はいつまでも尽きない。ここまで彼に疎まれていたという事実はあまりにも重く、謝りたくともどう謝罪すればいいのかさえわからなかった。
 牧童たちにはそれでも何か謝る機会もあるだろうが、最も愛する相手には顔を向けることもできそうにない。アレンカードから先、どこか浮き足立っていた自分はレオンの目にどう映っていたのだろう。それを考えると居た堪れずこのまま消えてしまいたくなる。相手は彼女のことなど露ほども思ってはいなかったのに。

「……っ」

 膝の上で握りしめた手の甲に1滴の涙が落ちる。綺麗だと言ってくれた時には嬉しさのあまり息を呑んだ。彼の唇が重なりかけた時には幸せな夢を見た。しかし夢は夢のまま、決して現実に変わることはない。愚かな希望を抱いた滑稽さ故にレオンは遠ざかり、もはや今までと同じようにさえ接してはくれないのだから。
 気丈にしていたつもりでも彼には見抜かれていたのだろうか。あるいはシャンティの恋心などとうの昔に気づいていて、ますます強くなる一方のそれに呆れていたのかもしれない。厄介な相手に追われているだけでも面倒だというのに、立場も弁えられない子供の想いまで押し付けられれば、レオンのような大人の男ならそう感じるのも当然だ。
 だが涙を流さずには耐えられないほど辛く悲しい時、強く抱きしめてほしいと願うのは今もなお彼しかいない。その相手こそがこんなにも彼女の胸を傷つけていながら、それを癒すことができるのもまたレオン1人しかいないのだ。シャンティは彼の前でだけ無防備に心を開いてしまう。それを優しく包み込むも、あるいは無下に手で跳ね除けるも、自分の全てをレオンに委ね相手の意思に任せたままで。
 早く眠らなければ翌日に障るとずっと思いながらも、結局彼女は一睡もできないまま次の朝を迎えた。身支度を済ませても再び彼に逢うのがたまらなく恐い。しかし共に旅をしている限り顔を見ないのは不可能だ。もう2度と逢えなくなってしまう別れの日も迫っているのに、まさかレオンの傍にいることがこうも辛くなってしまうとは。
 ――だがそれは相手にとっても決して例外ではない。

「あんた、シャンティに何を言った?」

 その翌日こそカウボーイたちは事態を静観していたが、更に日が経ち黙っていられなかったのはもちろんクライヴだ。

「何を……? さあな、俺は思い当たることなんざないぜ」
「ブラッドリー、とぼけるなよ。あいつの様子がおかしいことくらい一目見りゃ誰でも気づく」

 太陽が真上に昇る頃、2人の男は牛の群れの終わりで馬を並べ向かい合う。赤毛の男の褐色の双眸は静かな不満を湛え、相対する黒曜石のそれはまなざしを逸らすことはない。今やシャンティには見過ごせないだけの変化が現れている、それは他の2人とて当然ながら気がついているのだろう。しかし若く血気盛んな兄貴分は妹を護るため、いかなる時も彼女の盾となるべく真っ先に立ちはだかる――そんな存在になりたいとレオン自身が望んでいたように。

「あんたの腕は信頼してる。だがあいつを傷つけるような真似をするなら俺は許さねえ」
「泣きながら俺に来てくれと頭を下げたのはあんたなのにか? 全く勝手な言い草だな」
「……っ!」

 投げやりな言葉をぶつけてもその心は重くなるばかりだ。大人気ない八つ当たりで仲間と愛する女を遠ざける、そこまで落ちぶれた自分を僅かな自尊心が嘆いている。それでいて口を噤んで耐えることもできないと言うのだから、いい歳をした男の振る舞いとしてはもう救いようがない。

“は……若い女を相手に情けないなんてもんじゃないぜ。20歳にもならんガキだって俺よりはまだだいぶましなはずだ”

 シャンティを深く傷つけてしまっているという自覚はあった。それを詫びたい思いもある。だがなぜこんな態度を取っていたのかと彼女に問われた時、自分の弱さを曝け出さなくてはいけないことが恐かった。自身が傷つきたくないがために相手を嫉妬で傷つける、そんな身勝手な男を全て受け入れてほしいと望むのは、誰から見ても度が過ぎた妄想じみた愚かな願いだろう。
 ローゼ兄妹と別れた後で思わず吐いた皮肉以上に、先日の彼の言葉は愛しい娘を踏み躙ったはずだ。いくらシャンティを侮辱する相手に怒りが募ったとしても、本人が口論を避けようとしているのを無駄にした挙句、あまつさえ責任の所在を彼女になすりつける男など、例え好意を持たれていたところで見限られないわけがない……。

「くそ……あんたもシャンティも一体どうしちまったってんだよ。何があるかわかんねえのに、今はそんな時じゃねえだろうが」
「道なら好きに選べばいい。あんたたちがどこへ行こうと、俺は牛たちと後ろをついていくだけに過ぎないんだからな」

 しばらく南下すれば一行の行く手には大きな河があり、それを渡るか迂回するかで進むべき道は大きく変わる。前方ではゴードンとテッドがシャンティと話し合いを重ね、どちらを選ぶべきか慎重に思い巡らせているはずだが、彼らと意思を1つにしているクライヴは別にするとしても、レオンは元より重要な決定に関わる権利を持たない。路地裏で契約を交わした時にやんわりと言われたように、彼女にとっては旅を共にする仲間の1人というだけで、運命を同じくする相手として認められてはいないのだ。
 もしもそうでなかったならば――シャンティと温もりを分かち合えるような関係であれたなら、彼女を侮辱する者に銃も構えず見逃すことはできない。だからこそシャンティ自身にそれを咎められるのが辛かった。自分はそんな行動を許されるような立場にないのだと、用心棒の範囲を超えられない存在でしかないのだと、他ならぬ彼女から思い知らされるのはもう十分すぎる。
 ただ1人シャンティの愛を受けるに値すると認められて、初めてその先の行為に進むことが許されるというのに、何も知らぬ相手が下心を持って邪推してくるような、不誠実な関係を彼女と築くつもりなどさらさらない。しかしそういうつもりで思わず口に出してしまった言葉を、シャンティがどう受け止めたのかは火を見るよりも明らかだった。さりとて誤解を解くには本心を打ち明けるのが不可欠で、彼女の心を引き裂いたまま時間ばかりが過ぎ去っていく。
 結ばれないのなら憎まれてしまいたいと思ったことはない。だがシャンティが彼を愛する日など来ないと知らしめられても、レオンが彼女を忘れられる日も未来永劫来ないだろう。彼の心に辛く苦しい思い出だけが残ったとしても、レオンは必ず思い出す。鳶色の双眸の中に輝いた星のような煌めきを、もう2度と戻らない遠い日々になり果ててしまった後でも。
 いかなる時もシャンティを護りたいと強く願っているのに、実際は思いとは裏腹に彼女を傷つけてばかりいる。それでも彼はこの恋心を捨て去ることなどできはしない。自身の生き方を変えてしまうほどに深く愛しているのだ――シャンティ・メイフィールドを、彼女だけを、世界の誰よりも。

「……ん? おい、あいつ!」
「!」

 だからこそレオンは娘の身体が馬上で揺らいだ瞬間、頭で考えるよりも先に愛馬と共に飛び出していた。

「――っブラッドリー!」

 クライヴの言葉よりも早く彼女の元へ駆けつけるために。