「……!」

 傾いだその身を受け止めるのがあと少しでも遅かったなら、シャンティの身体に残るような怪我は免れなかっただろう。大柄な馬体に似合わぬ俊足が自慢のマースローには、長年のパートナーであるレオンとて感謝してもしきれない。

「な……っお、お嬢!?」

 ミルキーウェイの嘶きに驚いたテッドが振り向いた時、眉間に皺を刻んだ男と青褪めた顔をした娘は、まるで時間が止まったように瞬きもせず見つめ合っていた。薄く隈の残る目元は彼女が眠っていないことを告げ、怯えた眸は原因が他ならぬレオンだと伝えている。

「……前にも言ったよな。護るってのはこんな意味じゃない」

 そう告げた瞬間、掴んだままの腕が小さく震えた。もしもその後で娘の頬を涙が伝い落ちていたなら、彼はついにそれを拭う資格を得ることもできたのだろうか……他の男がそうしたように。

「ブラッドリー、あんたなあ! 誰だって調子の悪い時くらい――」
「いいの、テディ」

 すぐ隣へやって来た牧童が取り成そうと声をかけるが、力なく頭を振ってそれを遮り彼女は顔を上げる。そして両の目に滲んだ涙が零れぬよう無理をしながら、シャンティは誰が見てもぎこちないとわかる笑顔でこう言った。

「ミスター・ブラッドリー、助けていただきありがとうございます。いつもご迷惑ばかりおかけしてしまい申し訳ありません。もうこんなことのないように今後は十分気をつけますので」
「……っ!」

 思いやりの欠片1つない酷い扱いをされているのだ、本来ならば彼女は泣き喚くか怒り出してもいいはずだ。だがシャンティの答えはそんな感情すら封じられたもので、いかに相手が追い詰められていたのかを如実に示していた。レオンは胸が張り裂けそうな苦しみに彼女の手を離すと、黒馬の手綱を握りあっという間にその場から走り去る。

“違う……お姫さん、俺がしたかったのはこんなことじゃない。俺は、あんたのことが”

 人形のように光を失った眸の残像は消えず、頭の中に鳴り響くのはシャンティのか細い声ばかりだ。

「おい、ブラッドリー! 何もあんな言い方はねえだろうが」

 そこへ牛をかき分けて追いついてきたテッドが不満をぶつけ、流れ者は更なる自己嫌悪に苛まれずにはいられない。それを見抜かれるのを恐れ、レオンは輪をかけて不機嫌そうな口調で彼に返事をした。

「あんたたちもそうは言うがな、大事なお姫さんがこの調子で何かあったらどうするんだ? 不注意はこれで2度目だぞ。女だからって甘やかすつもりならここらでやめとくんだな」
「な……!」

 あまりの言い草に眼鏡をかけた牧童はつい絶句したが、長年の経験故かすぐに怪訝な表情で問い返す。

「あんた、最近おかしいぞ。お嬢は甘えるつもりなんて――っおい、待、ブラッドリー!」

 叱責よりも心配に近い仲間の言葉もろくに聞かず、レオンは再び愛馬に拍車をかけると荒野に飛び出した。

“『甘えるつもりはない』だ? そんなことは俺だってわかってる……”

 音を立てそうな勢いで噛みしめた奥歯が鈍く痛むが、それはシャンティの傷から見れば些細なものに過ぎないだろう。

“だから心配なんだ、ちくしょう!”

 過保護ではないかと感じていたカウボーイたちの態度でさえ、今の彼にはそれすらも生ぬるいものに見えて仕方がない。気丈だからこそ全てを抱え込んで潰れかねないのだから、彼女は重荷を分け合える相手が絶対に必要なのだ。最も相応しい人物が相手の隣に在れるのならば、テッドはそれが自分以外の男でも構わないと言ったが、レオンは自分でその場所に這い上がることを諦めはしない。自身がそれとは対極で、顔も見たくないと思われても、恋い焦がれる想い人の傍を離れるわけにはいかなかった。

“俺はあんたが好きなんだ。愛してるんだ……あんただけを!”

 彼の本当の人生はあの日の牧場で始まったのだ。彼女とめぐり逢った瞬間から過ぎ行く時間は意味を持ち、辿り着く、帰り着くべき唯一の場所をそこに見出した。そんな風に思わせてくれる相手は人生に1人だけだ。シャンティこそがレオンの運命を導いてくれる星ならば、別れれば最後もう2度とそれを抱くことはできないだろう。
 それでもこんな態度を取り続けていれば別れはほど近く、彼の予想よりずっと早く訪れてもおかしくないはずだ。しかし自らの預かり知らぬところで敵が彼女を襲い、その身に危険が及べばレオンは一生自分を許せない。
 だからこそ彼は娘の傍に留まらなければならないのだ。この長い旅の最後まで、偶然交わった2人の道が再び別たれる時まで、全ての危険から想い人を護りたいとそう願うならば。

「――じゃあ河を渡ればいいんだな?」

 その日の夕食はいつもに増して重苦しい空気だったが、レオンを真っ向から批判する者は1人としていなかった。シャンティがあらかじめ何も言ってくれるなと頼んでいたのか、はたまた何も言われずとも彼ら自身が自重していたのか、それを知ることはできないが、飛び交う視線には含みがある。だが交わされた会話の内容は場の雰囲気とはほど遠く、明日には差し掛かるであろう河をどう越えるかについてだった。

「ええ。見に行ってくれたテッドはかなり浅いと言っていたし、天気もしばらくは晴れそうだから迂回よりもいいと思って」
「ぐるっと回りゃあ最低3日は追加でかかるってところか。まあ牛が溺れちまうような河じゃねえなら進んじまおうぜ」

 塩気の強いポークビーンズをかきこみながらクライヴが言い、ゴードンやテッドも各々女牧場主に賛成する。だが――。

「あの……ミスター・ブラッドリーはこの進路でもよろしいですか?」
「!」

 シャンティがそう口にした瞬間、耳に痛いほどの静寂が5人のいるその場を支配した。ずっとこちらを見ようとしなかった彼女は初めて顔を向け、完全に不意を突かれたレオンは思わず食事の手を止める。居た堪れなさに耐え切れず、彼は苦々しげに眉を顰めると掠れた声で答えた。

「俺に尋ねてどうするんだ? 決めるのはあんただ、お姫さん」

 危険な相手に背を追われ、かつ元より先を急ぐ以上、とりたてて障害となり得るものがないと思われるのならば、最短の行路を選ぶのが最善であることは変わらない。ならばそう言えばいいものを、なぜシャンティにこんな憎まれ口を叩いてしまうのだろうか? 愛する相手を自ら遠ざけてしまうのは愚かなことだ。関係を修復しようという素振りさえ見せない男など、旅の中でもなければとうの昔に袂を分かたれている。それでいてレオンは彼女の心の揺れを確かに感じ取り、自身が愛した鳶色の眸に悲しみが広がる様を、身を切り裂かれるような辛さと共にその目に映してしまう。

「なら河を越えていきましょう。明日の午後には1番近い岸辺に辿り着くでしょうから」

 そう皆に告げたシャンティの声は明らかに疲れ果てていて、そこからはもはや誰も一言も言葉を発しはしなかった。
 堕ちるところまで堕ちた今、彼に残されている道は立てた誓いを貫くことだけだ。何があろうとも必ずシャンティを護り抜くという約束、それを果たさなければレオンは存在意義を証明できない。例え胸に秘めた愛を口にすることなく終わったとしても、その想いだけは真実だったと自分の身で示さなければ。
 ――だが停滞を打ち破る事態は皮肉にもすぐに訪れる。死神の2つ名を持つ男は猟犬のように後を追い、彼らの影に手が届くところまで迫ってきていたのだから。