「お……お、嬢!?」
「おはよう、テディ。どうしたの?」
「いや何だ、その……さ、最近ちゃんと寝られてるか?」
「?」

 明くる朝、朝食の準備をしていたシャンティを見るなり、テッドが上げた声は彼らしくない素っ頓狂なものだった。それに目を覚ましたクライヴも2人の方へ頭を巡らせ、夜勤明けの疲れも忘れぎょっとした顔で彼女を見つめる。

「おいシャンティ……何だよその顔、大丈夫か? すげえ隈だな」
「えっ!?」
「夜番じゃねえならちゃんと寝ろよ。それともブラッドリーの奴に何か変なことでも言われたか?」
「そんなことあるはずないでしょう。もう、ミスター・ブラッドリーに失礼なこと言わないでよね」

 シャンティが昨夜眠れぬ夜を明かしたことは真実だった。身体の芯までとろけそうに情熱的な甘いキスを受け、すぐに寝つけないほどには彼女もまた歳頃の娘なのだ。それも相手は想い患うほどに恋い焦がれた相手ならば、まだ深い口づけの火照りが残っているだろう唇より、目を引く隈ができてしまったのは逆によかったのかもしれない。
 だが幸福な余韻にばかり浸っていたわけではないことは、他でもないシャンティの心が誰よりも1番知っている。昨夜想いを告げた時から始まったレオンとの関係は、言葉にできないほどの幸福を味わわせてくれると共に、悲しみを刻むことがあらかじめ決まっているものなのだから。

「ようお姫さん、どうしたんだ」

 彼女が鏡で酷い顔を確かめて荷台から降りた時、牛や馬の世話をして戻った想い人がちょうど顔を出す。反射的に振り向いた後ではっと手をかざすが既に遅く、垣間見えた黒い目は珍しく驚きに見開かれていた。

「……こりゃまた見事にこさえたな」
「はい。2人も同じことを」

 荷台の乗り口は他の2人のいる場所からは裏にあたり、こちら側の会話は聞こえていても姿が見えるわけではない。だからこそ旅の仲間同士で交わし合う些細な軽口も、少し声を落とすだけで秘密の囁きへと変わってしまう。

「そう落ち込むな、シャンティ。そんな顔もなかなか可愛いぜ」
「!」

 通り過ぎざまに頭を下げ耳元で告げられるその言葉。思わず顔を上げて彼を見てしまったシャンティの唇に、何か柔らかく温かいものが素早く重なって離れる。

「ブラッドリー、ご苦労さん。熱いコーヒーでもどうだい」
「そいつはありがたいな、じゃあこのカップに1杯もらおうか」

 そんな何気ない言葉のやり取りを荷台の向こうに聞きつつ、彼女は頬を真っ赤に染めながらただその場に佇んでいた。
 昨夜、恋人同士となって初めてのキスを終えた後で、2人はまだしばらくこの関係を秘密にしようと決めたが、ぼろを出してしまうとすればそれはきっとシャンティに違いない。年齢からくる経験や知識の量も段違いとは言え、レオンがこうも器用に振る舞いを切り替えるのを見てしまうと、どうすれば秘密を守り通せるのかわからなくなってしまう。しかしすぐに終わる付き合いを公言する気があるはずもなく、願わくばテッドたちにはこのまま何も気づかずにいてほしい。
 昨日の今日で再び交わされたその口づけを鑑みても、彼は恋人との触れ合いを大切にする相手なのだろう。状況が許す限り彼女に手を伸ばす気があるのだろうし、またレオンはそれを可能にするだけの才覚を備えている。彼を誰よりも恋い慕うシャンティにとっては嬉しかったが、さりとて別れを覚悟しながら付き合いを続ける身としては、心のどこかに取っておきたい最後の砦としての距離を、触れ合う毎に縮められてしまうのが何とも辛く思えた。
 傷つきたくなければ付き合うべきではないとわかってはいても、愛しい相手に望まれたという喜びはあまりに眩く、いずれ襲い来る悲しみの影をも容易に消し去ってしまう。光の後に感じる闇はより暗くなると知っているのに、それでも優しく暖かい木漏れ日を求めずにはいられない……。

「しかしフォートヴィルが猫の仔1匹いないなんて言いやがった、あんな野郎の口馬に乗らなくて本当に助かったよな。河からこっち、牛の売値は俺たちの地元の2倍だぞ。馬なんか3倍に近い」
「金が採れるような場所は掘り尽くされちまってるかもしれんが、遠路はるばる来たってのに逃げ帰る奴もそうはいないだろう。一山当てると意気込んで郷里を出てきたんならなおさらだ」

 香ばしく焼けたビスケットを頬張りながらクライヴが言うと、銀のカップを傾けてコーヒーを飲みつつレオンも頷く。ゴードンを残していった街で聞いたフォートヴィルの噂では、寂れるどころか人々の数は増えるばかりとのことだった。街道を外れた最後の荒野を抜けられる力があれば、荒稼ぎをするのにまだ遅すぎるということはないのだとも。

「食い物もパンだの粉だのが精々だっていう話だしな。俺たちの牛を待ち侘びててほしいもんだぜ。だよな? シャンティ」
「ええ……」

 話を振られた娘は微笑んでその話に頷いたが、かの街の名も今となってはどこかほろ苦く感じてしまう。無事に牛は売れるだろうか? 売れたとしてその金額は負債を返すに十分だろうか? これまではずっとそれだけに頭を悩ませていればよかった。だが恋人との別れという苦しみがそこに待ち受ける今、牧場主としての使命との狭間で彼女は酷く揺れる。一刻も早くフォートヴィルに辿り着き全てを終わらせたい――それでも愛する男と1日でも長く共に過ごしたい。こんな悩みを抱えていれば上の空にもなると言うものだ。
 朝食を終えた4人は準備を整えると馬に跨り、近くで草を食む牛を追いながら南への旅を続ける。そして夕暮れが近づきその晩の居を荒野に定めた後、シャンティは護衛たるレオンと共に沢へ水を汲みに降りた。

「今夜はお前が当番だったな。よければ俺が代わってやろうか?」

 冷たい水で桶を満たした男はおもむろにそう尋ねる。つばの広い帽子の陰から覗いている双眸は優しく、娘は甘い喜びを胸の奥に覚えずにはいられない。

「いいえ、私は大丈夫です。もうゴードンもいないことですし、できることはきちんとやらないと……っ!」

 しかしそう答えた彼女の言葉はそれ以上続かなかった。水桶を足元に置いたレオンにぎゅっと強く抱きしめられ、突然のことについ頭が真っ白になってしまったからだ。
 すぐ傍に感じる力強い温もりは何より心地良く、その胸の温かさに幸福のあまり涙が出そうになる。恐れも、不安も、悲しみも、全てを忘れることができるのはただ彼の腕の中だけだ。ずっとこうしてほしかった――愛してくれる誰か、また自分も愛を感じる誰かに。

「無理するなよ。言っただろう、俺はお前の傍にいる」
「レオン……」
「シャンティ、俺を頼ってくれ。お前の力になりたいんだ」

 胸が震えるような熱い声、それをこんなにも近くで聞いてしまえば抗えるはずもない。頤にそっと指をかけてシャンティの顔を上げたレオンは、そのまま1度、2度と唇を重ね、いつしかそれは息もつかせぬ深いキスへと変わった。

「……そろそろ戻るか……?」

 しばしの後、栗色の髪を撫でる男はそう尋ねる。深い口づけの余韻も冷めやらぬ彼女のその頬のように、赤みを増した夕焼けは過ぎ去った時間をそれとなく示し、もう行かなければテッドたちも帰りが遅いと気がつくだろう。だが……。

「あと……もう少し、だけ」

 彼の胸に顔を埋めた娘の答えは理性とは違う。しかしレオンは彼女の返事に何ら気を悪くすることなく、その目を愛しげに細めるとシャンティの背中を抱いて言った。

「……ああ、わかった」