大きな道を進めば次の町までは意外に近いものだ。2週間近く人里離れた荒野で野宿をした身には、旅人や駅馬車とすれ違うことも多い今の行程は、安心できると同時にそこから先の見通しも立てやすい。
前の街から5日の後に訪れた町にも人は多く、規模の割には宿屋や料理屋が所狭しと並んでいる。保安官の詰め所には手配中の人相書きが張り出され、賞金稼ぎと思しき男たちが一覧を眺めていた。そのうちの1枚を目にしてシャンティは僅かに青ざめたが、彼女の用心棒はすぐにそれを察し軽く肩を叩く。
「大丈夫か?」
「レ――はい、ミスター・ブラッドリー」
2人きりであればこのまま抱き竦めてしまいたいところだが、屈強なカウボーイ2人から拳を食らうつもりはない。それでも鳶色の眸はほっとしながら彼を見つめ返し、娘はすっかり普段通りの柔らかさを取り戻していた。
「お嬢、安いがそれなりに良さそうな感じの宿があったぜ」
「ありがとう。さすがね、テディ」
「牛が腹一杯食える牧草地もあって水場もあるしな。これだけ人通りがありゃ狼を気にする必要もねえし」
「夜は俺がひと回りして、次はクライヴが朝飯前に様子を見りゃもう十分だろ」
長年そうして過ごしてきたのだろう3人が並ぶ後を、何も言わず眺めながら用心棒はゆっくりとついて行く。元々今夜の当番はテッドとクライヴの割り当てであり、従って彼は夜を徹して外に出ている必要はない。レオンは前夜にテッドと、その前の晩にはシャンティと共に夜番を担当したが、想いを通わせた後に2人で過ごすひと時はこそばゆく、もっと声を聞きたいと思えどなぜか会話は続かなかった。愛していると気づく前なら話題は尽きなかったというのに、そんなことは40余年の記憶を辿っても覚えがない。
しかしそのもどかしい沈黙にも不思議と不快さは感じず、彼女の存在を感じるだけで胸は温かく満たされる。目と目が合った時に恥じらいながらも浮かべてくれる微笑み、それを心の赴くままに引き寄せキスを交わせる歓び。これ以上に魂が打ち震える経験などあるだろうか? 静かな荒野で月と星の光だけが2人を照らす中、そこから先に踏み込まないようにするのは骨が折れたものだ。
“だがシャンティももう22になったんだろ? 大人の女だ。あいつがいいと言ってくれるなら、俺はそれこそ今夜だって……”
愛しているからこそ欲しい。シャンティの身にこの手で触れ、愛と歓びを分かち合いたい。何も身に纏わぬ素肌の温もりをお互いに感じながら、心地良い疲れと安らぎの中で一緒に眠りに就きたい。荒野の一匹狼とて、本当の恋を知ればそんな憧れの1つも抱くだろう。栗色の髪が揺れる度に覗く項は実に悩ましく、傍にいればいるほど彼女と結ばれたい思いは強くなる。
さりとてレオンとは異なり、これまでのところシャンティには恐らくこの手の経験がない。女学校の仲間たちの噂あたりで聞いてはいただろうが、“その行為”について男ほど楽観的にはなれないだろう。女にとってそれは愛情や快楽を伴うだけでなく、もっと本質的な理由が大いに関わってくるのだから。
今もしこちらが誘いをかければ彼女は確実に戸惑う。ましてや恋人という間柄になったのは数日前だ。とりたてて相手を急かす必要などどこにもないのであれば、シャンティがそうしてもいいと思えるようになるまで待てばいい。
“ああ、そりゃその通りだよ。けどな……”
がっしりとしたブーツから対を成すようにすらりと伸びた脚、ジャケットの裾から見える引き締まった腰つきを目にする度、彼の固めた決意は呆気ないほど簡単に揺らいでいく。我慢の利かない時代などとうの昔に過ぎ去っていながら、それでも愛しい恋人とベッドを共にしたくてたまらない。機が熟するのを待ちたい自身の思いに偽りはなくとも、シャンティがその身を任せてもいいとレオンに言ってくれる日が、1日でも早く来ないものかと願わずにはいられないのだ。
誰かを心から愛せば皆こんな思いをするのだろうか。こんなにも滑稽で、だが切実すぎる悩みを抱えて。
「ブラッドリー、要り用な物があるなら見てきていいんだぜ。俺たちは先に宿に入ってるからそこで落ち合うとしよう」
「ん? ……ああ、わかった。じゃあそうさせてもらうとしようか」
まるで見計らっていたように振り向いたテッドにそう告げられ、用心棒は邪な想いを見透かされぬよう背を向ける。どうにか彼女を部屋に引き込もうと頭を悩ませていると、知られれば最後アラステアとやり合う前に命が危ない。少し寂しげな顔をしたシャンティに後ろ髪を引かれつつ、レオンはその場を離れると雑踏の中へと姿を消した。
「――おう、探し物かい」
武器を扱う店の戸を開けば手入れをされた銃が並び、男は老齢の店主が座るカウンターに得物を乗せる。
「こいつに合う弾を。できれば3カートンは包んでくれ」
滞りなく交渉を終え目的の品物を受け取ると、レオンは自身の愛銃を右腰のベルトに吊り店を出た。片手で抱える紙袋の中身は存外軽いものだが、何人もの命が懸かっていると思えば重くも感じる。できることなら使う機会などなければいいと思いはしても、相手があのアラステアならばもはやそんな希望も叶わない。
負ける気で戦いに赴く男など1人もいないだろう。そこで愛する女を奪われかねないと言うならなおさらだ。しかし単純な実力ならば相手の方に分がある以上、いかに腕の立つ彼でも敗れることがないとは言い切れない。引き金を引けば相手の命を一瞬で葬り去る武器、それを手にして最大の敵と向かい合う時は迫っている。
「!」
だがそう思いを馳せた時、自身の右手の指先に震えを覚えたレオンは驚く。とりたてて自分が好戦的な方ではない自覚はあるが、これまではどんな難敵にも臆したことなどなかったはずだ。
“死ぬのが恐いってのか? ……いや、そうじゃない”
それは単に死というものに対して抱く畏れではなかった。自身の他に護るべきものを1つも持たなかったからこそ、これまで彼は大胆なまでに不敵な男でいられたのだ。しかし今は己の命よりももっと大切なものがある。レオンは気づいてしまったのだ。恐れているのは自身の生が終わるかもしれぬことではなく、心から愛する恋人を独り遺して死ぬことなのだと。
彼が倒れればアラステアは必ずシャンティを奪っていく。歪んだ愛を押しつけるためには手段など選ばないだろう。そんなことを許しはしない。街の厩舎で彼女と初めて唇を重ねたあの日から、もう2度と悲しみの涙は流させないと誓ったのだから。
「……なあ、シャンティ」
大衆店での夕食後、2人の仲間が偶然にもほんの僅か席を外した時。賑わいの続く食堂の片隅でレオンはそう呼びかける。顔を上げたうら若い恋人は見れば見るほどに愛らしく、男の胸を満たす甘い想いは決して尽きることがない。彼女がなぜ自分のような流れ者を受け入れてくれたのか、いつかこの旅が終わった時にでもまた尋ねてみたいものだ。
「レオン? どうかしましたか?」
何も言わぬままこちらを見つめる彼を不思議に思ったのか、シャンティは小首を傾げながら小声で恋人の名を呼んだ。ほのかな甘さを宿した優しい眸にレオンは目を細め、やはり彼女を急かすような真似はしたくないと思ったものの――その瞬間、まだしばらくは言わずにいようと決めたはずの、封じた想いが心の隙を突くようにして言葉に変わる。
「……俺の部屋に来ないか? 今夜」
我に返りしまったと思った頃には時既にもう遅い。シャンティは鳶色の目を零れそうなほどに大きく見開き、瞬き1つしないまま向かいに座る男を見つめていた。