“まずい……!”

 自分の言葉だというのに、耳に届いてなおレオンが理解するまでは時間がかかった。後悔先に立たずとは正にこういう場面を言うのだろう。

「違う。いや違うというのも意味としてはおかしいんだが、とにかく今のはお前が考えてるようなことじゃないからな。お前に無理はさせん。まだ早いってことはわかってるんだ」

 驚愕のあまり二の句が継げない様子のシャンティに対して、弁解をしなければと思えば思うほど頭は働かず、焦るあまりに聞かせる必要のないことばかり言ってしまう。だがその想いは疚しさではなく愛しさ故のものなだけに、あながち嘘と言い切れないのが話を更にややこしくする。今まで惹かれた女に醜態を晒したことなどないのに、よりにもよってようやくめぐり逢えた運命の相手の前で、迂闊にも程がある一言を我知らず漏らしてしまうとは。
 彼女の信頼を再び失えばこの関係も終わりだ。そんな結末など絶対に避けねばならぬ時だと言うのに、視界の端にはこちらにやって来るテッドとクライヴが映る。

「……忘れてくれ、頼む」

 シャンティと2人だけでいられる貴重な時間が尽きる間際、片手で目を覆いながら彼が呟けたのはそれだけだった。
 何も知らない2人が戻って来るとすぐ4人は席を立ち、他愛ない会話を楽しみながら宿への道を歩いていく。しかしレオンは表向き日頃の平静さを装いつつも、曖昧な相槌を打つ以外のことなどとてもできなかった。いくら恋人が相手とは言え決まりの悪さは計り知れず、彼女からの反応にも一切の希望は持てないとあれば、1人の男として落ち込むなというのはさすがに無理がある。こうも一喜一憂してしまうのは情けないと思いつつも、本気で愛したのは彼にとってもシャンティが初めてなのだ。相手よりずっと年長で色恋沙汰にも経験があれど、彼女の前ではレオンも若さに逸る青年と変わらない。

“くそ……何してんだよ、俺は”

 これで避けられるようになってしまったらと思うと胃が痛む。しかもそんな不安は的中し、宿の廊下で別れる時にもシャンティはこちらを見なかった。彼女が部屋に来なかったことはもちろん言うまでもないだろう。
 翌朝も晴天に恵まれ、陽射しがじりじりと肌を焼く。用心棒は愛馬の背からいつも通り牛を追っていくが、黒馬は主人がほとんど眠れなかったとわかっているのか、合図もないのにその足取りはやけに緩く丁寧なものだ。そんなマースローの気遣いさえも今のレオンには荷が重く、愛馬にも心配される自分が何とも情けなく思えた。
 ――だがその遥か先、牛たちの前で栗色の髪を靡かせている娘もまた、宿での一夜を穏やかな夢に費やしていたわけではない。

「こっちよ。そっちは危ないわ」

 仔牛を誘導しながらシャンティは人知れずため息をつく。原因は無論想い人が口にした前夜の誘いかけだ。夜中に彼の部屋を訪れることが示すものは明白で、珍しくも狼狽していた姿から推し量る限りでは、こちらが意味を取り違えているというわけでもなさそうだった。かつてはそんな関係を邪推されるのは迷惑だと言われ、ショックのあまり隠れて独り涙した夜もあったものだが、本当にレオンが彼女に想いを寄せてくれているのならば、そういう行為に思い至るのはある意味で当たり前だろう。
 しかしこの時代にシャンティと同じような年齢の娘が、将来の約束もなく関係を持つことなど許されない。未婚の母にでもなってしまえば故郷を追われるだけでなく、真っ当な手段で生きる術も同時に全て断たれてしまう。好奇心や興味だけでここから先に踏み出すべきではない、それは誰に言われずとも彼女とてもうはっきりわかっていた。いくら彼を愛していても、人生が懸かっている以上は受けてはならない誘いもある。
 だがシャンティはもはやそんな次元で悩んでいたわけではない。フォートヴィルに着くまでだけでもレオンの傍にいると決めた時、彼女は既にあらゆる未来に対し心を決めていたのだ。何があろうと彼を愛し、別れの時に後悔せず前を向いて歩むための覚悟を。

『……俺の部屋に来ないか? 今夜』

 こんな日が来ることも1度ならず想像したことはあったが、それでもいざその時が訪れると夜はあまりにも短い。心の準備もできぬまま、宿の部屋でこの言葉を一体何度思い返しただろう。色気を含んだ低い声で囁くようにそう問われた時、何も答えられなかったのはその気持ちが嬉しかったからだ。踏み留まる理由の全てに十分過ぎる根拠があっても、レオンへの愛はそれら全てを簡単に上回ってしまう。
 昨夜、彼はシャンティが来るのを待っていてくれたのだろうか? 彼女と同じく眠れぬ夜を過ごしてくれていたのだろうか……? 女なら皆愛しい男に純潔を捧げたいと願い、もしそれが叶うのであればすぐ後に別れが待っていようと、愛し合った幸福な思い出は永遠にその胸に残る。フォートヴィルまであと何度宿に泊まれるかすらわからないのに、少ない機会に目を背けることなどいつまでもできはしない。
 この先を1度でも知ればもはや戻れないとわかっていても、愛する男に触れられるのもフォートヴィルまでの間だけだ。別々の世界に生きているはずの2人が愛を分かち合い、共有したその歓びを魂に刻むことができるのも。

「レオン?」

 太陽が西へと傾き、寝泊まりの準備を始める頃。愛馬にブラシをかける彼女の足元に長い影が伸びる。テッドとクライヴは水を汲みに沢へと降りていったばかりで、問わずともシャンティ以外に残っているのは1人しかいない。然してそこには複雑極まる顔のレオンが立っていたが、今日ばかりはさすがの彼も真っ直ぐ視線を向けはしなかった。

「……悪かった」

 長い沈黙の後で聞こえた小声の謝罪は弱々しく、栗色の髪をした娘の心臓はぎゅっと締め付けられる。いつも自信と余裕に満ちた雰囲気を纏っているレオンが、こんな姿を敢えて彼女の前で見せたいはずもないだろう。どう接すればいいのかわからず今日も会話はできずにいたが、かと言って謝ってほしいなどと思ったことは1度もない。彼のところへ行けなかったのはそのつもりがないからではなく、ただシャンティに最後の勇気が出せなかったからだというのに。

「そんな顔はしないでください」
「だが――」

 続きを遮るように伸ばした手で恋人の頬に触れると、はっと上げられた眸はようやく彼女の姿を映し出す。ずっと見つめてほしかったのだ。女の内にも入っていないのではと諦めていた彼が、こうして望んでくれたならば喜びを感じないはずがない。

「お願い。何も言わないで」

 その言葉に軽く見開かれた黒い目が閉じるよりも早く、シャンティは想いの限りを込めてレオンに唇を重ねた。徐々に返される口づけは彼女を包み込むように優しく、身体の奥からゆっくりと何かを新たに呼び覚ましていく。しかしこれではもう足りない。もっと強く、もっと深く彼の存在を感じていたい。

“私……次の街ではきっとあなたのところへ行ってしまう。だって私は今もこんなに苦しくなるほどあなたのことを……”

 自分の望みが何なのか、シャンティははっきりと知っている。どんな悩みも不安も振り切らせてくれるのはたった1人だ。彼女が愛し、全てを許せる世界にただ1人の男――こうして強く抱きしめてくれるレオン・ブラッドリーしかいない。

“愛してる。私……あなたを愛しているの、レオン”

 2人はしっかりと抱き合い、真っ赤に燃える夕陽はその影を荒野に色濃く焼きつける。せめてあと少しだけでもこうして傍にいたいと願いながら、シャンティは愛する男の腕の中で安らかに目を閉じた。