砂色の髪のその男――アラステア・バロウズは物心ついた時にはスラムにおり、力ある者が弱き者から糧を、あるいは金を、命を奪うのを見て育ってきた。誰彼構わず身体を売っていた母は酒を求め続け、最期まで正気の彼女というものを息子が見たことはない。当然ながら父など誰かも知らないし興味もなかったが、もし今まで葬ってきた相手の中にそれがいたところで、彼にとっては何の意味もない瑣末事に過ぎなかっただろう。
 獰猛に獲物を喰い殺す狼へと変わった野良犬が、真っ当な情を持ち合わせているとは冗談にも言い難く、現にアラステアが理解できるものはただひたすらに貪り、奪い尽くし、嬲り殺し、それらを愉しむことだけだった。しかし穏やかな片田舎、平素なら見向きもしないで通り過ぎていただろうその場所で、灰色の眸の男はついにそれ以外の感情を知る。彼は出逢ってしまったのだ。固く閉ざされていた禁断の扉を開け放つ鍵を持つ、この世界にたった1人しかいないそんな運命の相手に。

“ふざけるなよ、この俺が”

 まるで足元の大地が抜け落ちでもしたかのような感覚、これまでどんな美女にも感じなかったその強い衝動には、他人から恐れられるアラステアも慄かずにはいられない。女など欲望の捌け口としか見なしたことのない彼は、今この時初めて本当の意味で誰かを必要とした。突然降って湧いた不条理な感情は一体何なのか、彼の身の内に潜む悪魔はすぐにその名を教えてくれる。自身が最も軽蔑し、最も縁遠かったそれをもう孤独な男は拒めない。

“このアラステア・バロウズがあんな小娘に惚れちまっただと……!?”

 後から思えば彼がその最後の女と定めた相手と、生涯ただ1度の恋に落ちたのはこの時だったのだろう。立ち尽くす男のすぐ横を少年が走って通り過ぎる。罵りや呪詛を撒き散らし、力で捩じ伏せねば生きていけない世界が存在するなど、知りもしなければ考えたこともないであろう無邪気な子供。誰かに護られて当然の、恵まれた幸福な存在がアラステアには酷くおぞましい。それは未知のものに対する本能的な恐怖にも似ていて、彼の乾いた指先は気づかぬうちに小さく震えていた。
 いわゆる普通の人間の生活を羨んだことなどなく、自ら選んだこの生き方に後悔などしようはずもない。だがもしあの時こうして手を差し伸べてくれる者がいたなら、まだ幼かったアラステアの未来は変わっていたのだろうか? ほんのひと時でも人の優しさに触れる機会があったなら、悪人にさえも恐れられる死神はいなかったのだろうか?

“ハ……くだらねえ!”

 しかしいくら虚勢を張ろうとも男は望んでしまっている。彼女の細い腕に抱かれ、その唇で口づけられたい。未だ穢れを知らない心を自分のものにしてしまいたい。彼にとっては唾棄すべき愚かなものでしかないそんな甘さ、嫌悪していたはずのそれがなぜかこの娘に限ってだけは、どうしても手に入れねばならない貴重なもののように思える。
 その日めぐり逢ったばかりの、20歳にも満たない女に容易く惚れ込んでしまったことで、アラステアの自尊心はこれ以上なく貶められていたが、どんな手段を用いてでもあの娘を捕らえろと訴える、身の内に潜む悪魔の囁きを退けるつもりなどない。身体中を焼かれるような魂の餓えを治めるためには、彼女が必要不可欠だとはっきりと悟っていたのだから。

「やっとか! シャンティ、遅えぞ!」
「待たせてごめんなさい、式の終わりが予定より伸びちゃって」
「だから女は面倒なんだ。さっさと乗れよ、早く帰るぞ」

 街の終わりにもほど近い小さな教会の前の広場で、見るからに気の短そうな赤毛の男がそう言うや否や、栗色の髪の娘は相手の元へ小走りに駆けて行く。彼女に想い人がいたところで消してしまえばいいのだから、死神の2つ名を持つ悪党はそんなことにこだわらない。何にせよ娘の名前がわかっただけでも既に上出来だ。
 ――その日からアラステア・バロウズは周到に準備を整え、シャンティ・メイフィールドが彼だけの花嫁になる時を待った。数ある偽の肩書きの中から無難なものを名乗りに添え、駅馬車を襲って得た金を手に日夜求婚に訪れる。その度に返される言葉は常に断りの返事だったが、アラステアにとってはそれも彼の遊びの一環でしかない。

“そうさなあ、お前は俺のたった1人の女房なんだ。そう簡単に折れてもらったらこっちも張り合いがねえもんな”

 娘が何を言おうともアラステアに諦めるつもりはなく、振り向かないなら力づくでも彼の方を向かせるまでだが、自分のものになるまでの過程を楽しむのも一興だろう。隠された本性を徐々に露わにする男を恐れつつも、震える脚で対峙しようとする女の姿はいじらしい。1度この手に落ちたならもう2度と彼女が離れないように、手足にもその首にも鎖をかけて縛り付けてしまいたい。永遠に彼だけを見つめ、アラステアの全てを愛し、シャンティの身も心も何もかもを捧げて奉仕するように。

『メイフィールド牧場? 可哀想だがあそこはもうだめだね』

 それから時を置かずして町にはそんな噂が流れ始め、長年の積み重ねは彼女の父ライアンをも死に追いやり、生まれ育った牧場さえ奪い取れる寸前まで来ていた。全てを失った娘は身を任せるしかなかったはずだが、それに固執したが故に彼は目の前にいた獲物を逃し、ついには投獄されるという汚名と屈辱まで味わった。あの日牧場にいた流れ者はアラステアの野望を砕き、あろうことか今では用心棒として居座っているという。数年の時をかけて愛する女を待ち侘びていた彼は、脱獄を果たしてなお湧き上がる憤怒と逆恨みの中で、弛まぬ憎悪と共に更なる執着を育て続けていた。
 だがそんな不毛な感情に振り回される日々ももう終わる。追う側から待ち受ける側になった悪党はただ悠然と、相手の方からこちらへ飛び込んでくるのを待っていればいい。この次に相見える時、寄る辺なき荒野の娘は今度こそ彼の手に堕ちるだろう。長らく望んでいたように、在るべき居場所へと収まるのだ。

「ボス、この前捕まえた新しい女はなかなかですぜ。昨日からはもう死んだ亭主の名前も呼ばなくなりやしたし、今日は5人目の男でついに気をやっちまったって話で。この調子ならまだしばらくは愉しめそうな雰囲気ですかね」
「ならお前たちで好きにしろ、飽きたらさっさと殺っちまえ。あの程度の女ならまたすぐそこらでいくらでも手に入る」

 根城にしている窪地の奥から顔を出す手下の1人に、アラステアは無関心を隠しもせずに短く返事をする。3日ほど前に夫婦者の旅馬車を襲った男たちは、夫を間髪入れず蜂の巣にするとその金品を奪い、粗野で凶暴なならず者たちは泣き叫ぶ妻を連れ去ると、劣情の赴くまま即座に彼らの慰み者へ変えた。
 女というのは哀しい性だ。例えどれほど拒否しようと、他に愛する男がいようと、何回、何十回とその身体を強引に抱いてしまえば、器は心よりも早く新たな所有者に馴染んでしまう。だがもし彼らがシャンティに同じ行為を働こうとすれば、死神は何の躊躇もなく手下の眉間を撃ち抜くだろう。アラステアもまた彼女を世界の誰よりも愛しているのだ。例え歪んだ愛情でも、愛という言葉の意味を完全に履き違えているとしても、その想いの本質それ自体には何の嘘偽りもない。

「早く来いよ、シャンティ……そしてブラッドリー、お前もな」

 夕闇が迫る地平線を眺めアラステアは独りごちる。荒野を渡る強い風の音はどこか獣の唸りに似て、彼は鋭く目を細めると得物の銃身をそっと撫でた。