アラステアが率いる手下の数は両手に満たないほどだが、川を背にしている分だけ地形上ではこちらが不利になる。囲まれてしまえばいかに腕の立つ銃の使い手であっても、もはやそこから状況を打開することなどできはしないだろう。決して時間はかけられない。さりとて展開を始めた敵の網に絡め取られる前に、片眼の死神を打ち倒すことは果たしてできるのだろうか……?

「ブラッドリー、先に行け! できるだけこっちで食い止める!」

 利が相手にあると見て取ったテッドが銃を構えつつ叫び、その隣でクライヴは敵と早くも撃ち合いを始めている。辺りは怯える馬と興奮している牛の鳴き声で満ち、一触即発の緊張感が一帯を包み込んでいた。

「待って! 私も一緒に――」
「だめだ!」

 銀の短銃を取り出し応戦しようとした娘を制し、レオンは片腕で抱いた彼女に愛馬の手綱を握らせる。ミルキーウェイは2日前に脚を挫いてしまったばかりで、仲間内にはマースローより脚の速い馬はいない以上、この場で導ける最適解を行使するのに迷いはない。

「不本意だろうが多数決だ。全力で行くぜ、口を開けてりゃその舌を噛んじまうぞ」

 アラステアはシャンティを傷つけぬために馬車の車軸を撃った。下手に馬や車輪を撃てば御者はたちまち地面に投げ出され、場合によっては車体の下敷きになり命を失うだろう。平素はそんな手段を好んで使っているだろう悪党が、こうも丁寧に狙いを定めそれを実行すること自体、彼女がいかに特殊な存在なのかを如実に示している。相手は今度こそそんなシャンティを見逃しはしないだろうし、この場所ではこちら側にとって致命的に分が悪い以上、3人の男たちの誓いが為される場面は今しかない。

「レオン……でも、2人が!」
「いいかシャンティ、振り向くなよ――どんなことがあってもだ」

 その言葉と同時に眼鏡の牧童が牛の背を鞭で打ち、何百頭もの牛がそれを皮切りに暴走を開始する。立ち昇る土煙の向こうで敵が銃を構えた瞬間、レオンは愛馬の脇腹に勢いよく合図を送りながら、装填された1発目の弾をアラステアめがけ撃ち出した。

「……!」

 まるで何かに吸い込まれているかのような奇妙な感覚に、疾走する黒馬の背に跨った娘は畏れを抱く。周りの景色はあっという間に色のついている風へ変わり、2人の仲間が既に遥か後方にいると気づいたのさえ、銃声の方が彼女の後を追いかけてきたからに過ぎない。優れた馬に乗れば手綱など用を成さないとは言うものの、シャンティはそれとは違った意味で言葉の意味を感じていた。例え彼女が手にした手綱を力の限り引いたところで、この馬が命令に従い脚を止めることなどないだろう。艶めく鬣を炎のようになびかせる逞しい馬は、轡に繋がる革紐によって操られているのではなく、鞍に跨がるもう1人の意志を自ら汲んでいるのだから。

“テディ……クライヴ……!”

 遠くからこだまするは敵とぶつかり合う銃撃戦の音。こんな事態があり得ることは嫌というほどわかっていたのに、いざ別れの言葉すら言えずに離れ離れになってしまえば、鳶色の眸には瞬く間に熱い涙があふれてくる。どうか無事でいてほしいという微かな希望に縋りながらも、止め処なく零れ落ちる煌めきは風に乗り荒野へと消えた。

「くそ……やっぱりな」

 頭が割れそうに大きく聞こえる心臓の鼓動の合間、心なしか焦りを帯びた声が真後ろの男から響く。風圧とあまりのスピードに彼を振り向くことはできないが、もはや発砲音は遥か彼方に過ぎ去りとても聞こえない。それでいてレオンは愛馬マースローの脚を緩めたりはせず、銃を構えた腕を下ろし手綱を受け取ろうともしなかった。それらの行動が指し示しているものは一体何なのか、頭で考えるよりも早く不吉な予感が胸をよぎる。

“嘘……そんな、まさか”

 少しずつ、だが確実に大きくなる別の馬の脚音。シャンティがはっきりとそれを自身の耳で聞き分けたその時、彼女の真後ろで恋人たる男が再び銃を撃った。2発目、3発目、4発目……しかし背後を追ってくる恐ろしい蹄の音は止まらない。5発、そして6発目。一息毎に近づいてくる恐怖はそれでも終わらなかった。

「そう簡単に逃がすかよ……!」

 冷酷な高笑いを思わせるぞっとするような嗄れ声。死神とも噂されるその男を娘はよく知っている。レオンはすぐに予備として持っている別の銃を構えるだろう。だがそれも尽きたその後は? もし悪魔の加護が6発の弾を再び退けたならば、空になった弾倉を装填する時間など望めはしない。今でこそシャンティ諸共傷つける事態を避けてはいても、全力で走っているマースローの体力もそろそろ尽きる。彼女が自分の銃を使い――あるいは手渡そうとする前に、敵は恋人の命を惨たらしく刈り取ってしまうはずだ。

「シャンティ……いや、マースロー」

 2丁目の銃を3発撃った後でレオンは口を開くと、どこか静かにも思える声で愛馬に向かいそう呼びかける。さりとてそれはシャンティの恐れを鎮めるまでにはほど遠く、叫び出したいほどの不安に彼女は押し潰されそうだった。

「どんなに速い馬だろうと、そりゃ2人で乗ってりゃ遅ェよなあ! さあ返してもらうぜ……シャンティを、俺の女を!」

 アラステアの声はもう手の届きそうなところで聞こえている。4発目の弾が放たれ、その後に5発目が続いたが、長銃の形をした鎌を持つ死神は傍を離れない。そして6発目の銃弾が願いも叶わず敵を逸れると、黒馬の正当な所有者は最後の命令を口にした。

「行け。絶対に止まるな」
「!」

 その時もしもシャンティが背後の光景を目にしていたなら、声1つ上げられず気絶していてもおかしくなかっただろう。片眼に眼帯をかけた悪人は手に持った荒縄を投げ、牛馬にそうする時のように黒馬を捕らえようとしていた。然してロープの一端はアラステアの骨ばった手を離れ、寸分違わず真っ直ぐに馬の首を狙い飛んで行ったが、黒髪の男は瞬時に自らの身を軌道へ差し出すと、その命を失う覚悟で愛馬と恋人を護ったのだ。

「か……は、っ」

 牙を剥いた蛇のような縄に巻きつかれ落馬したレオンは、全身を強く叩きつけられる激痛のあまり血を吐いた。砂色の髪の男はそれを見てすぐロープを手離したが、ほんの僅かな間とはいえ思わぬ負荷をかけられた馬は、前脚で宙をかきながら驚きに嘶いて脚を止める。愛した女を逃がすにはその一瞬だけで十分だった。瞬発力と脚力だけとっても価値など計り知れないが、長年のパートナーの本領は底なしの持久力にある。1人分の荷を降ろした愛馬は再び余力を取り戻し、黒い旋風となったマースローに追いつける馬などいない。

“死んでも護ると誓ったんだ。だからこれでいい……そうだろ?”

 用心棒とて自尊心は高い方だと自負してはいたが、いざとなれば名誉の死よりも命を取るつもりで生きてきた。だが旅立つ直前、路地裏でシャンティの誇り高いまなざしに宿る光を見た時から、彼のその考えは既に変わり始めていたのかもしれない。テッド、クライヴ、そしてゴードンから託された希望を護るために自分がしたことを、ここで息絶えようと後悔する気にはなれなかったのだから。
 アラステアが狂気に駆られて近くで何かを喚いていたが、もはやレオンには聞こえなかった。愛する恋人は確実に安全な場所まで逃げ果せた、その絶対的な事実だけが彼の心を癒してくれる。既に彼女の姿などどこにも見えぬ大地の果てを眺め、微かに笑った黒い髪の男の意識はそこで途絶えた。