「う……?」

 はっきりしない視界にぼんやりと浮かぶ景色に覚えはなく、頭を上げれば割れるような痛みに思わず呻きが漏れる。両手は磔の囚人の如く打たれた杭に縛られて、乾いた口の中には錆びた鉄の味だけが広がっていた。

「ようやくお目覚めかい、ロデオのスター殿」

 嘲笑めいた響きの声は意外にも近い場所から聞こえ、頭を垂れたままでも見慣れぬブーツの爪先が目に入る。レオンはその影が落とす角度と紅くなり始めた空から、自身が目を覚ますまでに過ぎ去った時間の経過を知ったが、最も確かめねばならぬシャンティの安否は不明なままだ。
 フォートヴィルから流れる川、激しい戦いの幕が切って落とされた件の水辺から、アラステアの根城までは実のところそう遠いわけではない。だが丘を背にした窪地は草が人の背丈まで生い茂り、存在を知らぬ者から見れば荒野の一部に過ぎなかった。無造作に置かれた木箱の中には銃弾が詰まっているが、それが真っ当な手段で所有されていないことは明白だ。辺りに散らばる袋には金や銀糸の刺繍が施され、金目のものを保管していた面影を残してはいたものの、少なくとも元の持ち主は皆もはや生きてはいないだろう。
 荒れ地の中に隠されたこの場所は文字通り悪党の巣だ。邪悪な心根を同じくしない者が迷い込んだら最後、どのような末路を辿ったのかは無論想像に難くない。そして今、自由を奪われ命の危機に晒された男がまた1人……。

「道理で覚えがあったわけだぜ、金持ちの有名人とはな」
「お前ほど……じゃ、ないさ」
「ハ! 括られた鶏みてえな格好で威勢がいいもんだ」

 途端に冷たい銃身が首の下に手荒く差し入れられ、店先に並んだ肉を扱うように顔を上げさせられる。かち合った剃刀めいた灰色の目は無感動に見えたが、その片眼の奥底に燻るほんの僅かな負の感情を、レオンは自身に備わった観察眼で敏感に見抜いた。少なくともまだこの悪人は完全に満足していない。

「言っとくが調子に乗るなよ、こいつを撃つのはいつでもできる。だからこそ珍しく少し待ってみる気にもなったってもんだ……お前を繋いどきゃ女が1匹釣れるかもわからんからな」

 その言葉はシャンティがこの場にいないことを裏付けるもので、黒髪の男の虚ろな目にも微かな希望の火が灯る。2人の仲間も生き延びて彼女とめぐり会っていてくれれば――彼はそんな淡い期待を我知らず心の中で抱いた。さすがのシャンティもこんな状況で自らここを探し出し、敵の懐に取って返すような無茶をするとは思わない。敵が時間を無駄にする間に彼女は遠くへ逃げてゆき、フォートヴィルまでそう遠くないところに辿り着いているだろう。
 アラステアは本来レオンなど目が覚めるのを待つまでもなく、八つ裂きにしてもまだ足りないほど心底憎んでいるはずだ。それでいてそんな相手を囮にしようと思える程度には、シャンティを背にした駿馬に距離を稼がれてしまったのだろう。彼女を愛馬に乗せて逃がしたのはやはり正解だったのだ。もはや自身が助かる見込みなど万に一つたりとてないが、それでも心を満たす感情は無念さや後悔ではない。紅く燃える夕陽の向こうに愛する女の姿を想い、男は残り少ない生命を燃やし恋敵を見上げる。後は1秒でも長くここにアラステアを留めておくこと、それが彼からシャンティへ贈れる最後の餞なのだから。

「それにお前には借りがある。ブタ箱にぶち込んでくれた礼はきっちり返させてもらうぜ。馬から落ちて終わりなんていう死に方は勘弁してくれよ」

 銃口が骨を削るような音を立てて額に当てられる。そこから新たに流れた血がゆっくり垂れるのを感じながら、レオンはずっと抱いていた疑問をならず者へと投げかけた。

「……どうしてシャンティに拘る?」
「おいおい……お前、あいつと寝た上でまだそれを聞くか?」

 不快そうに細められた目、しかしそこには答えを知りながら問う者への侮蔑が混じる。どこかの町に息がかかった手下を紛れ込ませていたのか、あるいは悪を極める過程で得た天性の直感故か。アラステアはあれから1度も2人と相見えずにいながら、旅の間に彼らが築いた新たな関係を知っていた。驚きを滲ませた相手に片眼の死神は銃を下ろし、大仰に両腕を上げると芝居混じりの口調で続ける。

「安心しろよ、ブラッドリー。あいつは特別な女だ、誰の手垢がついていようと俺のものになりゃ無碍にはしねえ。途中にどれだけ雁首並べようが最後がこの俺ならな」

 シャンティ・メイフィールドという清らかな娘に秘められた愛。自らの生きる意味を探した男は長い放浪の末、もう一方の男は欲のままに生きる中で思いがけず、彼女が健やかに育んできた内なる輝きに惹かれた。この場で向かい合う2人は何もかもが正反対だったが、彼らの魂が望むものは等しく同じ女1人だ。栗色の髪の女牧場主をめぐる恋敵として、また同じ早撃ちという技を使いこなす銃使いとして。必ず打ち負かさねばならない相手がここにいるというのに、縛られた手首は食い込む荒縄から解放されはしない。

「さあて……もう遊びも終わりだ。ブラッドリー、お前のしけた面は楽しませてもらったぜ」

 西の空に傾く夕陽はまるで滴る血のように紅く、東の地平線からは既に夜の闇が手を伸ばしている。砂色の髪を乾いた風に靡かせた死神の姿は、呪いめかしい陽炎の中に黒くくっきり浮かび上がった。死神の鎌を生きたまま喉元に突きつけられるとしたら、きっとこんな風に絶望的な気分を味わうのだろうか。アラステアは再び長銃の先をレオンへと突きつけると、浅黒い顔に残忍かつ冷酷な笑みを浮かべて言った。

「最初から余計なことに首を突っ込まなけりゃよかったのによ。俺の女に関わっちまったことがお前の運の尽きだな」

 嗄れた声には勝ち誇った響きがたっぷりと滲んでいる。だが自由を奪われた身では抵抗など無駄でしかなくても、黒髪の男はその物言いに笑い出さずにはいられない。

「お前の女……シャンティがか?」

 レオンはシャンティが焼いてくれるミートパイの味を知っている。馬にブラシをかける時は必ず左から始めることも、牛に縄をかけて捕まえるのだけは苦手にしていることも、毛布に肩まで包まらなければ眠りが浅いということも。涙を堪えている時の胸が締め付けられそうな笑顔も、深く口づける度により渇望を煽る甘い唇も、信じ難いほどの歓びを与えてくれる肌の温もりも。包み込むような優しさも、芯の折れないその強さも、アラステアが自ら確かめる術を持たないそれら全てを。

「違うな、あいつは生涯お前のものになんてなりやしないさ。例え今ここで俺が死んでもそれが変わることはあり得ない」

 過ぎ去りし長き日々の果て、彼は自分の全てを捧げられるただ1人とめぐり逢った。自身の命が風前の灯火にも等しいと言うならば、彼女を奪おうとする敵に今更遠慮するつもりもない。この場での勝敗などもはや誰の目にも明らかであっても、両手を括り付けられている男はもう勝利しているのだ。あの日荒野でレオンの想いが受け入れられた時からずっと、シャンティは彼をパートナーとして選んでくれているのだから。

「――ッ!」

 激昂したアラステアは手にしたライフルを腰だめに構え、その銃口は標的の心臓を寸分違わず捉える。しかしいよいよレオンが自身の死を覚悟しようという瞬間、彼は敵の背後に聳えている切り立った丘陵の上に、長年見慣れた愛馬の黒い影の幻を見た気がした。