「俺は認めねえからな」
誂えられたベッドの上、包帯を巻かれた赤毛の男は剣呑に女を睨む。
「……呆れた。前にも言ったでしょう、私はもう何かをするのにあなたたちの許可はいらないって」
「だからって結婚を勝手に決める奴がどこにいるってんだ!?」
クライヴがそう叫んだ時、看護婦が顔を覗かせ静かにするよう彼に忠告した。シャンティは慌てて謝罪するとクライヴの方に向き直るが、彼女の隣で壁にもたれる黒い目の男がいる限り、兄貴分の機嫌が良くなることは決してあり得ないだろう。
「あなたが何と言おうと、私はレオンと結婚しますからね」
「それがそもそもおかしいって話をさっきからしてんだろうが。いきなりそんなこと言われてはいそうですかで済むわけねえだろ!」
再びきつく眉を寄せた看護婦が部屋の戸口に現れ、2人は咄嗟に口を噤む。それを見てついに喉の奥でくつくつと笑い出したレオンは、不毛な言い争いを続ける若者たちを見やって言った。
「シャンティ、そのくらいにしておけよ。金勘定の続きがあるだろ?」
「そうでした。もう行かないと」
「おい話はまだ終わってな……っブラッドリー、てめえ汚ねえぞ!」
だがいくらクライヴが憤りのあまり呼び留めようとしても、やっと半身を起こせるようになった程度では無理なことだ。褐色の眸はただ閉じられた扉を睨みつけるだけで、次にそこを開けるのはまたしても注意を告げる看護婦だろう。
「もう……どうしてクライヴはあんなに頑固なのかわかりません。それまでの話は細かいところも喜んで聞いていたのに、あなたと結婚すると言ったらあんな風に怒り出すなんて」
「仕方ないさ。あいつはそれだけお前のことが大事なんだ」
「でもテディはわかってくれたでしょう?」
廊下に出たシャンティは眉を寄せながら恋人に肩を貸し、松葉杖を持った彼と共に隣の病室へと戻ると、気の抜けた羽根枕を軽く叩いて心地良く膨らませる。男が寝そべるのを手伝った後で椅子へと腰をかけると、彼女は深いため息をついて兄貴分への愚痴をこぼした。
2人が街に辿り着いてからは早くも3日の時が過ぎ、彼らの名は既に英雄として街中に知れ渡っている。住民たちは牛を相場の20倍の値段で買っていき、借金の半分を超える金を得られることは間違いない。早ければ数年で牧場に戻れる見込みさえ立つだろう。荷馬車に積んできた道具や香辛料までが飛ぶように売れ、道中最大の脅威だった相手ももはやいないとなれば、帰りの道は身軽なものだ――4人のうち3人はまだまともに動けないことを除けば。
「まあ何だ、いくら兄貴分でも今回ばかりは折れてもらうさ。お前が頑固な跳ねっ返りなのはあいつもよく知ってるんだ」
「レオン!」
揶揄された娘はむっとした表情で恋人の名を呼ぶが、全身の打撲に加え脚の骨にまでひびが入っている、そんな相手にそれ以上何かをしでかす気などさらさらない。もちろん、例えレオンが怪我1つない健康体の時でも、彼女がそれしかできないであろうことは言うまでもないのだが。
「それに誰がどう口を挟もうと俺の意志は少しも変わらん。1番ややこしそうなところからはもう許可を取ってあるしな」
「?」
シャンティがきょとんとして首を傾げると彼はその手を伸ばし、栗色の髪を優しく梳きながら笑顔を見せて話し出す。
「爺さんが俺に残れと言った時があったのを覚えてるか?」
それがゴードンの病室でのことだというのはすぐにわかった。彼らはその時に何を話し合ったのかを一切明かさず、こちらから内容を尋ねられる空気もまたなかったのだが、そんな謎めいた秘密がついに口にされようとしているのだ。
「あの時、爺さんはもう俺がお前に惚れてるって見抜いてた。遊びのつもりならすぐ犬の餌にしてやると脅されたがな、本気じゃなきゃこんなことはあんたにだって言わんと答えたんだ。お前さえいいと言ってくれれば俺は結婚するつもりだと」
「……!」
「白状させた割には赤毛の若いのと変わらん反応さ。元気な時なら口を利くより先にぶん殴られてたろうな。あの歳で血の気の多いこった」
何かとても深刻な話に違いないとは思っていたが、意外すぎる真実にシャンティは呆然とレオンを見つめる。
「多分爺さんはお前の気持ちの方も気づいてたんだろうな。それで俺が本気だとわかった爺さんは説教を垂れると、渋々にも程がある態度でいくつか条件を出したのさ。お前の側も俺に好意を抱いてくれてるのを前提に、まずはお前を無事にフォートヴィルの街まで送り届けること。そしてバロウズの野郎の息の根を旅のどこかで止めること。それから――」
彼はそこまで言うとベッドの横の棚から紙を取り出した。無造作に4つ折りにされたそれにはところどころに染みがあり、見る者が見れば肌身離さず常に持ち歩いていたが故、戦いでついた黒髪の男の血の痕とわかっただろう。レオンはその紙を開くと、瞬きもせず立ち尽くしている娘に差し出しながら言った。
「お前自ら結婚を承諾するまでこれを見せんことだ」
彼の傍にいる時、もしかするとシャンティはいつも何かに驚かされているかもしれない。そして新たな驚愕の前ではいつもそれ以前のものなど、その数のうちにも入らなかったのだと思い知らされるのだ。だがきっとこれ以上の驚きを与えられることはないだろう。そうでなければきっと困る。
「どうして……こんなものを、あなたが?」
震える手に握られているのは牧場の債権の一部だ。しかも恐らくは半分、もしくはそれ以上にも近い額の。長旅で縒れた紙面には見知った名前が何人も並び、彼らの誰もがある人物に手持ちの債権を売っている。その相手はもちろん――。
「金には困ってないと言ったがさすがに全部は無理があった。1つ1つ訪ねて交渉してるような暇もなかったしな。だが大口の相手からは一通り買い取ってるつもりだぜ。残ってるのはもうしばらく猶予してくれそうな小口だけだ、帰った後でも大丈夫だろう」
レオンの話を聞きつつも、彼女の目は署名の成された日付の上でぴたりと止まった。それはシャンティが質屋で両親の形見の指輪を売った日、つまり旅立つ前日のものだ。当然こうして彼と将来を誓い合う身になるどころか、お互い特別な感情を抱くようになるより前であり、ただの通りすがりにも等しい女牧場主を相手に、こんな大金を使ってしまう者がいるとは信じられない。
「でもあの頃はまだこんな風になるなんて思わなかったのに」
栗色の髪の娘が涙を浮かべてレオンに尋ねると、彼は優しげに目を細めシャンティの細い腰を抱き寄せる。
「お前が出してくれたミートパイは最高に美味かったからな、俺にとってあの晩のもてなしはこの額に相当したのさ。それにお前が路地裏で見せた覚悟が俺を動かしたんだ。金があっても元々大した使い道があったわけじゃなし、酒や博打ですっちまうよりはずっとましな使い方だろう?」
「だ……だからって、こんな」
「もっと早くお前にこれのことを教えてやりたかったんだが、1度でもこいつを見せちまえばお前は俺に否とは言えん。お前を金で買うような真似はどうしてもしたくなかったんだ。だがお前も俺を愛してるんならこいつを渡さん理由がない。一息ついたら荷物をまとめてお前の家まで帰ろうぜ。俺たちと、他の3人もだ」
「ああ……レオン、あなた……!」
伝えたい想いは止め処なく心にあふれてくるというのに、そのどれもが胸いっぱいに詰まって言葉にはなりそうにない。2人はただ固く抱き合うと何度も熱く唇を交わし、全てが終わろうとしている大きな感慨を共にしていた。